永弘院

愛知県名古屋市にある寺院

永弘院(ようこういん/えいこういん)は、名古屋市千種区にある臨済宗妙心寺派の寺院山号を上野山と称する。本尊は薬師如来。開基(創立者)は下方貞清。開山(初代住職)は義雲祖嚴禅師(ぎうんそげんぜんじ)[1]

永弘院
所在地 愛知県名古屋市千種区上野1丁目4−18
位置 北緯35度10分54.57秒 東経136度57分10.48秒 / 北緯35.1818250度 東経136.9529111度 / 35.1818250; 136.9529111座標: 北緯35度10分54.57秒 東経136度57分10.48秒 / 北緯35.1818250度 東経136.9529111度 / 35.1818250; 136.9529111
山号 上野山
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 薬師如来
創建年 天文7年(1538年
開山 義雲祖嚴禅師
開基 下方貞清
正式名 上野山 永弘院
札所等 東海四十九薬師霊場28番
公式サイト 上野山 永弘院
法人番号 7180005000707 ウィキデータを編集
永弘院の位置(名古屋市内)
永弘院
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歴史 編集

戦国時代天文7年(1538年)に、信州小笠原家の後裔である下方氏一族の下方貞清が義雲祖嚴を開山とし、居城である上野城の北東にある藥師堂に祀られていた薬師如来を本尊として寺院を建立した[2]

貞清は、戦乱の世が進み戦場を駆け巡る日々が多くなると、武運長久と一族の安穏を祈願するために信仰していた勝軍地蔵菩薩を祀るための堂を寄進し、寺を心の拠り所とした。

しかしながら突如、本能寺の変により下方氏一族の存亡の危機が訪れることとなり、永弘院も檀越である下方氏の荒廃と命運を共にしていくこととなった。

歴代住職の厳格な宗風により、上野村の禅寺として村々の人々に支えられ、少しずつ伽藍を整えていったが、幾度となく災厄に遭い、5世・言峰如侃、9世・魏峰祖欽、14世・孝山玄裕の代に大規模な再建がされた。

近年では、1945年(昭和20年)5月14日の名古屋大空襲により、山門・鐘楼を残して悉く灰燼に帰し諸堂宇を焼失したが、人々の熱心な信仰に支えられ、本堂、納骨堂、庫裡、書院、玄関、隠寮、地蔵堂、茶室、塀等が逐次再建・新築され、今日に見る伽藍となる。

末寺として法蔵寺・万福寺・桃善菴があったが、現在はない。

所在地 編集

名古屋市千種区上野1丁目4-18

脚注 編集

  1. ^ 『尾張志』天保14年(1843年)刊に、「永弘院上野村に有り上野山といひて京都妙心寺の末寺なり。当所の領主下方左近源貞清創建して義雲祖嚴和尚を開山とせり。貞清は信長記安土創業録、織田軍記等にいへる小豆坂七本鎗の一人にして、慶長十年七月十四日に死去し法号を永弘院心源浄廣居士といふ。則、当寺の号とす。名古屋の世臣下方氏小瀬氏の祖なり。義雲和尚は加茂郡萩平村三玄寺正宗法憧禅師の法嗣にして、犬山口徳授寺に前住せり」
  2. ^ 『尾張徇行記』巻2(1822年)刊に、「永弘院界内二反五畝備前検除○府志曰、永弘院在上野村、号上野山、臨済宗、属洛陽妙心寺、下方左近永弘住此、即建之、故名曰永弘院○天文七戌年草創ノ由、然ル二此寺下方氏離散ノ後零廃シ、言鋒長老、元禄三年今ノ所ヘ易地再建」(府志…『尾張府志』宝暦三年(1752年)刊、天文7年…1538年、言鋒長老…五世言峰如侃禅師、元禄3年…1690年)

関連項目 編集

外部リンク 編集