永源寺
永源寺(えいげんじ)は、滋賀県東近江市にある臨済宗永源寺派の大本山。山号は瑞石山。
永源寺 | |
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![]() 本堂 | |
所在地 | 滋賀県東近江市永源寺高野町41 |
位置 |
北緯35度4分50.1秒 東経136度19分10.5秒 |
山号 | 瑞石山 |
宗派 | 臨済宗永源寺派 |
寺格 | 大本山 |
本尊 | 世継観世音菩薩 |
創建年 | 康安元年(1361年) |
開山 | 寂室元光 |
開基 | 佐々木氏頼 |
正式名 | 瑞石山 永源寺 |
文化財 |
絹本着色地蔵十王像ほか(重要文化財) 山門(滋賀県文化財) |
法人番号 |
1160005006034 ![]() |
歴史編集
康安元年(1361年)、近江守護佐々木氏頼(六角氏頼)が寂室元光(正灯国師)に帰依し、自ら開基となって寂室元光を開山として創建した。
最盛期には寂室元光を慕って2千人の僧が入寺し、56坊もの坊院があった。寂室元光の死後はその4人の高弟が当寺を守った。応仁の乱が始まると、京都から横川景三などの禅僧が当寺に避難してくるなどした。しかし、明応元年(1492年)、次いで永禄6年(1563年)と二度も大きな戦火を受けて全山焼失し、衰亡した。
江戸時代に入り、妙心寺の別峰紹印とその弟子で永源寺第79世となった空子元普が再興運動を始めると、寛永20年(1643年)、高名な一糸文守(仏頂国師)を招く。これにより、後水尾天皇や東福門院、彦根藩の帰依を受けて、伽藍が再興された。1873年(明治6年)に明治政府の政策により臨済宗東福寺派に属したが、1880年(明治13年)に永源寺派として独立した。
鈴鹿山脈を挟んで東側の三重県いなべ市にも永源寺の一部があったといわれ、永源寺跡と呼ばれる場所がある。三重県いなべ市の伝承では、永禄年間(1558年 - 1570年)織田信長家臣である滝川一益の軍勢が、北伊勢地方の寺を焼き払いながら迫って来たため、三重県側の永源寺の僧は兵火を逃れるため、寺の宝物などを持ち一夜にして竜ヶ岳の南側にある鈴鹿山脈の石榑峠を越えて、近江の永源寺へ逃れたとされているが、永源寺側の記録には一切ふれられていない[1]。三重県いなべ市の永源寺の建物は滝川一益の軍勢によって焼き払われたが、水田周辺に石垣の一部が残されている[2]。
本尊は、子がなかった六角満高が熱心に祈願していると、ついに嫡子となる六角満綱が誕生したことに由来を持つ秘仏、世継観世音菩薩である。寺内には彦根藩主井伊直興の墓所がある。
東近江市永源寺地区は、永源寺コンニャクや政所茶の産地であり、惟喬親王ゆかりの木地師発祥の地として知られる。また付近からは2010年(平成22年)に国内最古級・1万3千年前の土偶が発掘された。
境内編集
文化財編集
重要文化財編集
- 絹本着色地蔵十王像 11幅 陸信忠筆
- 絹本着色約翁徳倹像 文保三年自賛あり
- 塑造寂室和尚坐像
- 附:像内納入品
- 大乗経咒偈頌等(包紙添)1巻1紙 内に応安五年七月、同七年三、四月筆者永釈、永哲等の奥書がある 料紙に尚一の消息紙背を用いるものがある
- 銅経筒 1合
- 経、陀羅尼、名号、印仏、偈頌等 一括
- 附:像内納入品
- 寂室元光墨蹟(風攪飛泉詩)
- 寂室元光墨蹟(遺偈 貞治六年九月一日)
- 寂室元光消息(二月九日華蔵寺宛)
- 寂室元光遺誡
- 開山忌関係文書(一括指定)
- 永源寺開山祭文(貞治六年九月二日)
- 永源寺開山初七日香語(貞治六年九月八日)
- 永源寺開山十三回忌法語(康暦元年九月一日)
- 永源寺開山三十三回忌陞座語並ニ香語(応永六年九月一日)
- 永源寺開山西宋庵入祖堂法語(永和三年季春)
- 永源寺文書(8,747通)61巻、14帖、1,604冊、88幅、6,748通、13鋪、3枚[3][4]
出典:2000年までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
滋賀県指定有形文化財編集
主な行事編集
所在地編集
滋賀県東近江市永源寺高野町41
- 永源寺ダムとは、約1.5km離れている。
交通アクセス編集
出典編集
参考文献編集
- 永源寺町史編さん委員会編集 『永源寺町史 永源寺編』 永源寺町、2002年3月29日