永順太氏(ヨンスンテし、えいじゅんだいし、朝鮮語: 영순태씨)は、朝鮮氏族本貫慶尚道尚州永順面朝鮮語版(現在の慶尚北道聞慶市永順面[1])。2015年の韓国国勢調査によると、4,626人がいる[2]高麗中期以降に大氏太氏に改姓したことがあるため、永順大氏とも[3]

永順太氏
氏族
朝鮮
領地 慶尚北道聞慶市永順面朝鮮語版
家祖 太仲象
太金就
著名な人物 大祚栄太完善
永順太氏
各種表記
漢字 永順太氏
日本語読み: えいじゅんだいし
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始祖は、渤海国滅亡後、高麗に帰化した靺鞨族大金就(太金就)。ただし、現在の永順太氏一族は初代渤海王の大祚栄の父・太仲象を始祖とし、太金就を中始祖として祀っている[4]

概要 編集

李氏朝鮮後期に編纂された『永順大氏族譜』によると、一世祖は上将軍・兵馬元帥として永川君に封じられた太雄成の息子・太金就で、都始祖・太仲象の18世孫である[3]。『陜渓太氏族譜』によると、太金就は高麗高宗の時、金郊でモンゴル帝国軍英語版を撃退したため大将軍となり、その後永順君に封じられ、尚州郡北面林下村に定居し、その子孫の一部は陜渓太氏として分立した[1]。また、他には南原太氏羅州太氏密陽太氏もあるが、全て永順太氏と陜渓太氏から分籍したものである。特に陜渓太氏は全羅北道任実沃溝などに集居しており、南原太氏は現在の北朝鮮に多く住んでいる[3]

本貫の永順に関しては、『高麗史』巻五七地理志二慶尚道尚州牧条に「諺伝,州北面林下村人姓太者,捕賊有功,陞其村,為永順県」と記し、それを『増補文献備考朝鮮語版』巻五二帝系考・付氏族・太氏条に「高麗時,永順部曲民,有太姓者,捕賊有功,陞部曲為県」と記しており、林下村は部曲と推測される[5]高麗時代の部曲あるいは所は、地方行政制度の一環をなす行政区画であるが、郡県の下に隷属し、住民全体が国家の課した特定の役を世襲的・集団的に義務づけられた政治的社会経済的に低い境遇におかれ、磁器ショウガワカメ魚類などの物品の生産・貢納が義務づけられていた[5]

北村秀人は、「記録に現われる当時の大氏の実例をみると、いずれの時期の亡命者の場合も、高麗での政治的社会経済的な地位・境遇は、どちらかというと、低く劣ったものであったことが窺える」と指摘している[5]

集姓村 編集

脚注 編集

  1. ^ a b 태씨(太氏) 본관(本貫) 영순(永順)입니다.”. www.findroot.co.kr. 2022年9月7日閲覧。
  2. ^ KOSIS”. kosis.kr. 2022年11月27日閲覧。
  3. ^ a b c 발해 대조영의 후손 太氏 연원과 현황” (朝鮮語). 영남일보 (2006年10月3日). 2022年9月7日閲覧。
  4. ^ a b 김정석 (2017年5月25日). “발해 대조영 후손들이 경북 경산에 모여사는 이유는…” (朝鮮語). 중앙일보. 2022年9月7日閲覧。
  5. ^ a b c 北村秀人『高麗時代の渤海系民管見』大修館書店月刊しにか〉、1998年9月、71-75頁。 

関連項目 編集