江藤 慎一(えとう しんいち、1937年10月6日 - 2008年2月28日)は、熊本県山鹿市出身[1]福岡県北九州市生まれ)の元プロ野球選手捕手内野手外野手)・監督解説者

江藤 慎一
Shin'ichi Eto 1959 Scan10003.jpg
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 熊本県山鹿市
生年月日 (1937-10-06) 1937年10月6日
没年月日 (2008-02-28) 2008年2月28日(70歳没)
身長
体重
178 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手一塁手捕手
プロ入り 1959年
初出場 1959年4月11日
最終出場 1976年8月14日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
野球殿堂(日本)
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 2010年
選出方法 競技者表彰

前妻は元宝塚歌劇団44期生の瀬戸みちる。次女のはやせ翔馬74期生。プロ野球選手、コーチ、慶大の監督を務めた江藤省三は実弟。

経歴編集

プロ入りまで編集

福岡県で生まれたが、太平洋戦争による集団疎開で各地を転々とする。幼少時より新聞配達やアイスキャンデー売りなどで家計を助けていた[1]

八幡製鐵で外野手を務めていた父から野球を教わり、捕手となる。小学4年次の1947年に母の郷里である山鹿へ引っ越すと、中学進学後の1950年から本格的に野球を始める。4番・捕手として県大会に出場するなど活躍し、中学卒業後は1953年熊本商業高校へ進学。1年次の同年秋からレギュラーとしてチームを引っ張り、3年次の1955年に行われた夏の甲子園県予選では、西園寺昭夫を擁する熊本工に敗れて甲子園には出場できなかった。

高校卒業後は野球で身を立てようとしたが就職口がなく[2]日鉄二瀬濃人渉監督を訪ねた[2]。新規採用はもう終わっていたが、江藤の熱意に心打たれた濃人は会社に臨時雇での採用を掛け合って江藤はテスト入団を果たす[2]。入社後は毎日長時間の肉体労働をこなしたあと、練習に参加。チームメイトであった古葉毅によると、江藤は入社直後は右方向しか打球が飛ばなかったが、濃人監督の指導できちっとしたスイングを身につけた[3]

1956年からは3年連続で都市対抗野球大会に出場し、1957年には1回戦で鐘化カネカロンと対戦して決勝本塁打を放つ。この試合でチームメイトの村上峻介とバッテリーを組み、大会史上初の完全試合をアシスト。1958年はエース・井洋雄の好投もあって決勝進出を果たすが、日本石油に敗れる。同年の産業対抗では決勝で日本ビールを降し、チームを初優勝に導いた[4]。他の同僚には吉田勝豊がいた。

プロ入り後編集

中日時代

1959年に強肩・強打の捕手として中日ドラゴンズへ入団したが、後に古葉は「江藤は私と一緒の広島に入団すると思っていたが、中日は広島の2倍以上の契約を提示したため江藤は中日に入団した」と述べている[5]。日鉄二瀬入社後から給与の大半を仕送りしていたが、プロ契約金も全て実家に渡したほか、「自分は高校までだったから3人の弟は大学を出す」と弟たちの学費を全て負担したという[6]

当時の中日は吉沢岳男が正捕手としての地位を確立していたため、杉下茂監督は前年引退した西沢道夫が守っていた一塁へと江藤をコンバートした。最終的に外野を守らせる構想があったという[7]。杉下は江藤を全130試合に起用し[7]、その内125試合は一塁手としての出場であった。森徹の後の5番を打ち[7]、新人ながら打撃面では打率.281・15本塁打・84打点と好成績を挙げたものの、31本塁打を放った桑田武大洋)が居た為、惜しくも新人王は逃した。

4月15日巨人戦(後楽園)で、伊藤芳明からプロ入り12打席目で初本塁打となる2ラン本塁打を放つ。この時の試合は先発の児玉泰が3回裏に土屋正孝にソロ本塁打を打たれ先制を許し、4回裏にも藤尾茂にソロ本塁打を浴びもう1点追加される。更には5回裏にも2番手の板東英二から広岡達朗の適時三塁打、藤尾の適時二塁打で2点を加えて勝負を決めたかに見えたが、好投していた先発の伊藤から7回表に1点を返すと、9回表には江藤が2ラン本塁打で1点差に迫った。しかし2番手の藤田元司に後続を抑えられ、3-4で敗れた[8]

日鉄二瀬時代の恩師・濃人が監督に就任した1961年には外野手を兼ねたが、初の20本塁打を達成してベストナインにも選出される。

1962年には吉沢の移籍によって再度捕手に回るが、森徹の移籍で4番も務めるようになる。7月10日の巨人戦(中日)では判定への不信感から審判を殴打している。

1963年からは左翼手として確実性のあるバッティングで年々数字を上げ、同年は打率.290・25本塁打・70打点で2度目のベストナイン入りを決める。

6月18日国鉄戦(後楽園)では3回裏に根来広光のソロ本塁打で先制されると、5回裏にも星山晋徳のソロ本塁打で追加点を許し、当時の日本記録である310勝を目前とした先発の金田正一に6回を終わり僅か2安打と、タイ記録を達成されそうなムードになってきた。しかし7回表に1点を返した後の一死満塁から河野旭輝が押し出しの四球で同点となり、ジム・マーシャルは三振に倒れたが、江藤が3球目のカーブを左翼席へ叩き込む満塁本塁打で一気に勝ち越した。その後は先発の柿本実から受け継いだ2番手の権藤博が抑え、6-3で逆転勝利し、江藤は試合後の毎日新聞のインタビューに「(打った球が)カーブだった。ボックスに入った時、カネさんがとても気にしていると思い、打てるという予感がした。もちろんねらっていたんだ」とハキハキ答えている[8]

8月25日の巨人戦(中日)では6回雨天コールドゲーム(6-6で引き分け)に抗議し、試合終了宣告後も雨の中で一人だけレフトの守備位置に立ち続けた。試合は成立しており2本塁打も記録に残るので引き上げるようコーチに諭されるが、江藤は「勝たなければ意味がない」と引き上げず、杉浦清監督に宥められてようやくダッグアウトに戻った。

闘志溢れる構えや豪快なスイングに一塁へのヘッドスライディングなど、常に全力を出し切るプレースタイルで「闘将」とまで呼ばれ、1964年1965年には2年連続で首位打者を獲得。1964年は王貞治が本塁打・打点の成績でぶっちぎりのトップを走り、9月初め時点で首位打者にも立っていたため「戦後初の三冠王もあるのではないか」と大いに騒がれていた。この状況に大いに燃えた江藤は「絶対に首位打者は渡さない」とばかりに闘志を剥き出しにし、ショートへ深いゴロを打てば決して速くない足で一塁へ全力疾走してヘッドスライディングで飛び込むなど、とにかく一本でも多く安打を放って打率を稼ごうとする。その執念が身を結んだのか、9月9日の巨人戦(後楽園)で高橋明から二塁打と21号本塁打を放って逆転に成功。一度は王に逆転を許したものの、9月23日に王が江藤の打率を逆転できなかったため首位打者が確定し、打率.323で自身初の打撃タイトルを獲得。

1965年は4月に肉離れを起こして連続試合出場記録が809試合でストップするが、前年同様に本塁打・打点のトップを走っていた王に三冠王は達成させないとばかりに打率を上げ、2年連続で首位打者に輝くと共に王の三冠王を阻止した。ON砲が揃って現役であった1959年から1974年の16年間、セ・リーグにおいて2年連続で打撃三冠タイトルを獲得したON以外の選手は江藤だけである。

1967年1968年には34・36本塁打と長打力も発揮したが、首位打者以外では王に叶わなかった。

1969年シーズンオフには、同年就任した水原茂監督に対し、選手を代表して叱責のきつさに抗議したことを「反抗」と取られてその怒りに触れ、また彼が監督就任時に中京財界の要人らを従えてきたことから立場が弱かったため、球団からトレードを通告される。それに対して江藤は「中日の江藤で終わりたい」とトレードを拒否。1970年の構想から外れて引退に追い込まれてしまうが、同年に濃人がロッテオリオンズの監督に就任したことを機に現役復帰。形式上は川畑和人との交換トレードの形を取り、ロッテへ移籍した。

ロッテ時代

8月15日西鉄戦(平和台)では4番に座り、2回表に左翼席最上段に突き刺さるソロ本塁打を放って先制。6回表に西田孝之のソロ本塁打で追加点、7回表にはまたも江藤が先発の三輪悟から左翼へのソロ本塁打でダメ押しした。投げては先発の木樽正明が7安打されながらも要所を締めるピッチングで西鉄から得点を許さず、3-0での完封勝利で木樽は17勝目を挙げて成田と共にハーラーダービーのトップに立ったが、江藤の2本塁打も効果的であった[9]。途中加入ながら10年ぶりのリーグ優勝に貢献し、巨人との日本シリーズでは第5戦(東京)で高橋一三から先制1号2ラン本塁打を放っている。

1971年には榎本喜八に代わり一塁手に定着し、開幕から四番打者として起用されて3度目の首位打者を獲得、史上初のセ・パ両リーグ首位打者となる[10]。「丁寧に打つこと、特に最終打席を大切に」をモットーに相手チームの先発ローテーションを1ヶ月先まで予測し、過去数年間のデータと付き合わせ、実践的バッティングを予習するという細心にして根気強い研究による自信に裏付けられたバッティングであり[11]、これは2011年内川聖一が記録するまで長らく江藤のみの記録であった[12]

自身の誕生日である10月6日に行われたシーズン最終戦の南海戦(東京)で首位打者が確定したが、その翌7日に大洋へのトレードを通告される[10]。当初はロッテ側が江藤・成田文男の2人と平松政次とのトレードを申し込んだが大洋側に断られたため、江藤と野村収の1対1交換という形で交渉が成立した[10]。濃人が放棄試合を起こして監督を解任され、後任に守備・走塁を重視する大沢啓二が就任したためのトレードであった[1]

大洋時代

移籍後は左翼手としてシピン松原誠クリーンアップを組んで中心打者として実績を残すが、投手陣の弱さもあってチームは3年連続5位に終わる。

1972年8月6日ヤクルト戦(川崎)ではストライクの判定に激昂し、主審に蹴りを何度も入れて退場。1973年6月28日の巨人戦(川崎)では無死一、二塁から土井正三が犠打、これを三塁手クリート・ボイヤーが悪送球し1点を先制、更に満塁から末次民夫の犠飛でもう1点を追加した。大洋打線は先発の堀内恒夫から毎回走者を出しながら得点をあげられなかったが、7回裏に江尻亮の適時打で1点を返し、8回裏にシピンが遊撃手上田武司のグラブをはじく安打で出塁、1死後に江藤が堀内の外角ストレートをバックスクリーンへと運ぶ2ラン本塁打で逆転。その後を4番手の山下律夫が抑えて3-2と、山下は約1年ぶりの勝利を手にした。逆転2ランを放った江藤はホームインの直前にベンチ前で両手、片足をあげピョンと跳び上がる得意のポーズを披露し、試合後に『あのケースではヤマは張れんよ。ただ無心、これだよ。ひっかけずに中堅方向へバットを押し出すように振ったので、打った瞬間入ると思った』と会心の一打を話した。バックスクリーン入りの本塁打には、賞金30万円と1年分の清涼飲料水が出た[9]

太平洋選手兼任監督時代

1975年河原明との交換トレードにより、太平洋クラブライオンズへプレイングマネージャーとして移籍。これは、シーズン終了後に監督に昇格した秋山登が「使いにくい選手」として放出を決めると、江藤が熊本商の出身で福岡のノンプロ・日鉄二瀬にいた地縁を考慮して「太平洋なら引き受けてくれるのでは」と、当時福岡を本拠としていた太平洋に話を持ち掛けたことが発端である[13]

一方の太平洋側にも、稲尾和久の後任として大沢の就任が9分9厘決まりかけていたのを[14]「かつての西鉄のような荒々しい野武士野球を」と中村長芳オーナーが一転して、江藤に白羽の矢を立てた事情があり、監督兼任での獲得となった。

球団運営会社である福岡野球の経営難により、用意された住居は6畳一間のアパートであったが、「俺は野球が出来ればええんじゃい」と意に介さなかったという。

1974年11月に江藤を送り出す大洋は中部謙吉オーナー同席の記者会見を行い、トレードというより太平洋監督就任の挨拶という内容の新天地にかける抱負を延々と述べた。太平洋も中村オーナーが同席して福岡市内のホテルで記者会見を行うが、地元記者クラブが「福岡でまず新監督の発表をして、そのあと東京でやろうというのならまだしも、先に東京でやるとは」と激怒し、中村に抗議文を突き付けて記者会見をボイコットした[13]

在任中はユニフォームの後ろポケットにバットを突き刺すというスタイルで注目を集め、ファイト剥きだしのプレーと首脳陣にも思ったことを口に出す江藤は投手出身で選手を長い目で見て育てようとする前任の稲尾のカラーを一掃すべく、力のある強打線で打ち勝つ野球を標榜[15]。トレードで日本ハムから白仁天近鉄から土井正博のスラッガーを獲得。このシーズンのライオンズ打線には山賊打線の異名が付けられた。

ひと癖もふた癖もある個性派ぞろいのチームは派手に打ち勝つゲームがあるかと思えば、打てないときは全くお手上げという大雑把な野球であったが、低迷するライオンズの現状を打ち破るのではないかという期待をファンに抱かせた[15]

6月1日のロッテ戦(川崎)で水谷則博から球界史上初の全球団本塁打9月6日の近鉄戦(藤井寺)では通算2000安打を達成。個性重視は個人成績に表れ、東尾修が最多勝、移籍組の土井が本塁打王、白が首位打者を獲得。タイトルを獲らせるために、白や土井の打順をいじるだけでなく、欠場もさせた。東尾に関しては連投をさせ、勝てそうな試合はリリーフで登板させ、白星を稼いだ。「タイトルを獲れば選手として責任が芽生える。それがチームの強化に繋がる」というのが江藤の持論であった[15]

チーム成績は前期2位・後期4位の通算3位で、球団が福岡野球の経営に移ってから初のAクラス入りとなる成績を上げた。土井は「江藤さんは門限なんか言わんし、やりやすいチームでした」と述べている[16]

江藤は「来年も山賊野球で大暴れしてペナントに挑戦する」とやる気満々であったが、打撃3部門に2人、最多勝と計3人も主要タイトルを3人も獲得し、西鉄から西武への過渡期の太平洋・クラウン時代で唯一のAクラス入りも借金4で、江藤の采配にはフロントも「優勝もしていないのに個人タイトルばかり獲らせて・・・。契約更改がゾッとする経営者泣かせの監督だ」と顔をしかめた。借金がかさみ、給料の遅配もあった当時の太平洋にとって、江藤の山賊軍団は迷惑な存在になっていた[15]

太平洋は前述の大沢への再度の打診の後、大沢の日本ハム監督就任が決まる。1度は江藤の留任が決まったが、同年12月にフロントはレオ・ドローチャーを招聘する構想に切り替えたことで監督を解任。ドローチャーから前向きな返事をもらうと、江藤は打撃コーチ兼選手に格下げとなるが、「やはり一選手の方がワシは向いている」と年末になって太平洋を退団[15]。その後、結局ドローチャーは体調不良で来日せずに契約を破棄したため、後任監督にはヘッドコーチの鬼頭政一が昇格。竹之内雅史とベンチ裏で口論を繰り広げるなど、チーム内に団結力は生まれなかった[17]。竹之内は「次の監督江藤さんだったけど、見ると聞くとじゃ大違い。豪快な人に見えるよね?それが繊細な人でね、気が小さいし。この人と俺、一回ケンカしたことあるんだよ。それが、監督のほうから謝ってきた。普通だったら、選手の立場から言うとクビって言われても仕方ないようなケンカやったのに。そういう意味じゃ、懐深ったのかもしれないね。」[18]と述べている。

ロッテ復帰

1976年、金田正一監督の「プロとしての生きざまを若い選手に見てもらいたい」との誘いでロッテに復帰[19]。妻子を博多に残して四畳半の合宿所住まいを選び、大好きな酒も断ったほか、走り込みなどで10キロ以上の減量に成功。キャンプ地・鹿児島天文館にあるマムシのエキス入りラーメンを食べて耐えた[19]

ペナントレースに突入すると、4月4日日本ハム戦(後楽園)で高橋から先制の1号2ラン本塁打を放ち、チームの初勝利に貢献。翌5日には野村から逆転の2号ソロ本塁打、14日の近鉄戦(後楽園)では井本隆から決勝の3号ソロ本塁打を放つ。17日の太平洋戦(宮城)では初回に関本四十四から先制打を放つなど、ロッテが4月に挙げた11勝中5勝は江藤の活躍によるものであった。

5月には打率が3割を超え、金田も「予想以上。持っている技術が違うで。江藤さまさまや」と上機嫌になったが、6月になると右肘の古傷により成績は急降下[19]。治療に通ったものの良くなることはなく、後期が始まるとほとんど出番が無くなる[19]7月7日の太平洋戦(平和台)で石井茂雄から最後の本塁打、8月13日の太平洋戦(平和台)で最後の安打、翌14日が現役最終出場となった。シーズン途中に金田がコーチ補佐の肩書を付けようとしたが拒否し[20]、現役を引退。

引退後編集

引退後は1977年から東京12チャンネル・テレビ東京○曜ナイター→戦国ナイター」、ラジオ関東バッチリナイター解説者を務めた。

1977年には映画『野球狂の詩』に解説者役で出演して野球技術指導も担当し、1978年には少年野球草野球を中心にした野球雑誌を発行。

1985年4月からは静岡県田方郡天城湯ヶ島町日本野球体育学校(通称「江藤塾」)を設立し、合宿所は「百錬寮」と名付けられ、プロ入り第1号の竹峰丈太郎(1988年阪神タイガースにテスト入団)や、野球ブラジル代表投手・ダニエル・ミサキの父であるマルセル・ミサキら学生23人を指導。

1986年からは「天城ベースボールクラブ」に改称し、同年の全日本クラブ野球選手権大会に初出場。

1991年には監督に岡嶋博治を招聘し、5年ぶり2度目の出場となった同年のクラブ選手権で初優勝を果たす。

1992年にはヤオハンと業務提携し、チーム名を「ヤオハンジャパン硬式野球部」に改称。クラブ登録から企業登録へ変更し、選手強化を進めていった結果、1994年には都市対抗野球大会に初出場する。1回戦でいすゞ自動車を敗るも、2回戦で本田技研鈴鹿に敗退した。

1997年には3年ぶり2回目の出場を果たしたが、直後に親会社が倒産して活動休止。

1998年からはアムウェイと業務提携したうえでクラブチーム「アムウェイ・レッドソックス」として再出発。同年のクラブ選手権で7年ぶり2度目の優勝を達成するが、同年限りで活動を終了。チームからは大西崇之岡本真也森田丈武を輩出した。

その他の活動では1993年から岐阜県スポーツ少年団指導員に終身したほか、ブラジルでの野球指導やオーストラリアの野球プロ化にも尽力。

2001年には自由連合の候補として第19回参議院議員通常選挙に比例代表区から出馬するも落選。駿河台大学非常勤講師、特定非営利活動法人ワールドベースボールアカデミー理事長も務めた。

2003年夏頃に脳梗塞で倒れて入院、以後は寝たきりの生活だった。弟の省三によれば、入院してからは球界関係者の見舞いを断り続けて、親族のみの訪問だけ受け入れていたとのことである。

2008年2月28日午後3時38分、肝臓癌のため東京都内の病院で死去。葬儀・告別式は東京都桐ケ谷斎場で行われた。葬儀委員長は渋沢良一元セ・リーグ事務局長。喪主は三女が務めた。70歳没。2010年野球殿堂入り。

詳細情報編集

年度別打撃成績編集

















































O
P
S
1959 中日 130 529 495 52 139 19 3 15 209 84 13 12 0 4 27 5 3 58 9 .281 .319 .422 .742
1960 130 474 429 48 108 19 2 14 173 61 7 11 0 4 36 5 5 49 8 .252 .314 .403 .718
1961 130 540 480 50 128 17 1 20 207 77 4 8 4 8 46 6 2 48 10 .267 .328 .431 .760
1962 133 562 493 74 142 13 0 23 224 61 4 4 1 5 60 5 3 61 4 .288 .365 .454 .820
1963 140 583 510 72 148 26 0 25 249 70 12 7 0 5 61 13 7 50 9 .290 .370 .488 .859
1964 140 527 468 57 151 21 0 21 235 72 5 1 0 6 47 6 6 43 13 .323 .387 .502 .889
1965 129 529 443 75 149 22 2 29 262 74 6 3 0 2 81 18 3 36 13 .336 .440 .591 1.032
1966 102 413 364 51 117 16 1 26 213 91 1 1 0 2 43 15 4 30 9 .321 .397 .585 .982
1967 132 553 481 85 133 20 1 34 257 78 6 6 0 4 64 14 4 49 9 .277 .363 .534 .898
1968 131 535 487 80 147 29 1 36 286 93 7 3 0 2 40 5 6 59 12 .302 .361 .587 .948
1969 119 497 436 51 122 20 2 25 221 84 1 3 0 6 51 9 4 52 10 .280 .356 .507 .863
1970 ロッテ 72 181 146 21 42 4 0 11 79 31 1 1 0 3 30 3 2 23 6 .288 .409 .541 .950
1971 114 446 389 57 131 8 1 25 216 91 3 1 0 6 49 5 2 41 15 .337 .408 .555 .963
1972 大洋 103 309 276 37 69 9 0 18 132 51 0 0 0 2 29 3 2 35 8 .250 .324 .478 .802
1973 111 405 365 30 103 7 0 15 155 44 2 3 0 1 38 5 1 33 20 .282 .351 .425 .775
1974 111 403 378 34 110 11 0 16 169 67 3 0 0 1 24 1 0 30 13 .291 .333 .447 .780
1975 太平洋 88 324 302 28 69 11 1 8 106 36 2 1 0 2 17 0 3 31 12 .228 .275 .351 .626
1976 ロッテ 69 237 214 22 49 2 0 6 69 24 1 2 0 4 18 0 1 24 6 .229 .287 .322 .609
通算:18年 2084 8047 7156 924 2057 274 15 367 3462 1189 78 67 5 67 761 118 58 752 186 .287 .358 .484 .841
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績編集

年度 チーム 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1975年 太平洋 3位 130 58 62 10 .483 2位・4位 135 .261 3.73 38歳
  • 1975年から1996年までは130試合制
  • 1973年から1982年までは前後期制のため、ゲーム差欄は前期、後期順位の順に表示

タイトル編集

表彰編集

記録編集

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1964年4月5日、対阪神タイガース2回戦(中日スタヂアム)、9回裏に村山実から左越ソロ ※史上35人目
  • 150本塁打:1966年5月3日、対読売ジャイアンツ4回戦(後楽園球場)、1回表に中村稔から左越先制決勝2ラン ※史上21人目
  • 1000安打:1966年6月26日、対大洋ホエールズ11回戦(川崎球場)、6回表に平岡一郎から中前安打 ※史上24人目
  • 1000試合出場:1966年8月4日、対読売ジャイアンツ16回戦(中日スタヂアム)、4番・左翼手で先発出場 ※史上114人目
  • 200本塁打: 1967年9月19日、対読売ジャイアンツ21回戦(後楽園球場)、7回表に中村稔から左越3ラン  ※史上15人目
  • 250本塁打:1969年5月25日、対読売ジャイアンツ6回戦(中日スタヂアム)、3回裏に高橋一三から左越3ラン ※史上7人目
  • 1500安打:1970年8月16日、対西鉄ライオンズ18回戦(小倉球場)、4回表に後藤清から三塁内野安打 ※史上26人目
  • 1500試合出場:1971年4月29日、対南海ホークス4回戦(大阪球場)、4番・一塁手で先発出場 ※史上37人目
  • 300本塁打:1971年8月5日、対東映フライヤーズ17回戦(東京スタジアム)、2回裏に柳田豊から先制ソロ ※史上6人目
  • 1000打点:1972年7月16日、対広島東洋カープ16回戦(青森県営野球場)、9回裏に大石弥太郎から右前適時打 ※史上9人目
  • 3000塁打:1973年5月26日、対読売ジャイアンツ7回戦(川崎球場)、4回裏に関本四十四から右前安打 ※史上9人目
  • 350本塁打:1974年9月23日、対ヤクルトスワローズ23回戦(川崎球場)、4回裏に松岡弘からソロ ※史上6人目
  • 2000試合出場:1975年8月27日、対日本ハムファイターズ後期11回戦(平和台球場)、5番・指名打者で先発出場 ※史上10人目
  • 2000安打:1975年9月6日、対近鉄バファローズ後期7回戦(藤井寺球場)、9回表に柳田豊から右翼線二塁打 ※史上9人目
その他の記録

背番号編集

  • 8(1959年 - 1969年、1972年 - 1974年)
  • 12(1970年 - 1971年、1975年 - 1976年)

関連情報編集

出演番組編集

主な著書編集

  • 闘将 火と燃えて~山賊軍団を率いる男の履歴書~(1975年、鷹書房)
  • はばたけ少年野球~950万球児の青空学校~(1982年、広済堂
  • 野球は根性やない(1986年、大和書房

脚注編集

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  1. ^ a b c ベースボールマガジン 2013年9月号 「黄金ルーキーの肖像 野球職人ニックネームが語る個性派群像 江藤慎一 「闘将」』ベースボール・マガジン社、30–33頁。
  2. ^ a b c 越智正典「ネット裏」『九州スポーツ』2015年3月19日付
  3. ^ スポーツニッポン、古葉竹識の我が道(7)、2016年11月7日
  4. ^ 「日本社会人野球協会十年の歩み」日本社会人野球協会 1959年
  5. ^ スポーツニッポン、古葉竹識の我が道(8)、2016年11月8日
  6. ^ 「闘将」セ・パで首位打者 故・江藤慎一氏(野球殿堂・エキスパート部門)朝日新聞
  7. ^ a b c 杉下茂著『伝えるII:プロ野球 努力の神様たち』(中日新聞社、2013年11月)ISBN 9784806206590、P227-228
  8. ^ a b 江藤慎一、全本塁打一覧(前編・1959~1967)|本塁打大全
  9. ^ a b 江藤慎一、全本塁打一覧(後編・1968~1976、その他)|本塁打大全
  10. ^ a b c 【10月6日】1971年(昭46) “闘将”江藤慎一、両リーグ首位打者確定 誕生日に非情通告”. スポーツニッポン (2007年10月6日). 2012年9月12日閲覧。 [リンク切れ]アーカイブ[1]
  11. ^ 江藤 慎一 | 日本プロ野球名球会
  12. ^ 内川、規定打席到達…40年ぶり両リーグ首位打者当確”. スポーツニッポン新聞社 (2011年10月14日). 2017年12月24日閲覧。
  13. ^ a b 別冊週刊ベースボール冬季号『プロ野球トレード史II』、124ページ、ベースボール・マガジン社、1991年12月31日発行。
  14. ^ 大沢がロッテの監督だった時代の経営陣が、球団運営会社だった福岡野球の経営にあたっていた。太平洋は江藤の解任後にも再度大沢に打診して決まりかけていたが、結果的に日本ハムの監督に就任した。
  15. ^ a b c d e 【9月6日】1975年(昭50)“山賊”の親分江藤慎一 注目されなかった2000本安打
  16. ^ 週刊ベースボール、2014年6月23日、P75、ベースボール・マガジン社。
  17. ^ 『野球小僧 6月号 2012』白夜書房、p.209
  18. ^ 『九州ライオンズ激闘史―1950ー1978 (B・B MOOK 1123)』ベースボール・マガジン社、2014年、91頁。
  19. ^ a b c d 【8月29日】1976年(昭51) 闘将江藤慎一 事実上引退「コイツか言うこと聞いてくれん」
  20. ^ 「週刊ベースボール」1976年9月13日号

関連項目編集

外部リンク編集