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池田 行彦(いけだ ゆきひこ、1937年5月13日 - 2004年1月28日)は、日本政治家大蔵官僚位階正三位勲等旭日大綬章旧姓粟根

池田 行彦
いけだ ゆきひこ
Yukihiko Ikeda.png
生年月日 1937年5月13日
出生地 兵庫県神戸市
没年月日 (2004-01-28) 2004年1月28日(66歳没)
死没地 東京都千代田区
出身校 東京大学法学部
前職 国家公務員大蔵省
所属政党 自由民主党宏池会堀内派)
称号 正三位
旭日大綬章
法学士(東京大学・1961年
配偶者 池田紀子
親族 義父・池田勇人
姪の夫・寺田稔

日本の旗 第124・125代 外務大臣
内閣 第1次橋本内閣
第2次橋本内閣
在任期間 1996年1月11日 - 1997年9月11日

日本の旗 第50代 防衛庁長官
内閣 第2次海部改造内閣
在任期間 1990年12月29日 - 1991年11月5日

内閣 宇野内閣
在任期間 1989年6月3日 - 1989年8月10日

選挙区旧広島2区→)
広島5区
当選回数 10回
在任期間 1976年 - 2004年1月28日
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衆議院議員(10期)、内閣官房副長官(政務担当 / 鈴木善幸内閣)、総務庁長官第7代)、防衛庁長官第50代)、外務大臣(第124125代)、自由民主党政務調査会長(第42代)、自由民主党総務会長(第40代)等を歴任した。

妻・紀子の父は元内閣総理大臣池田勇人。妻の姪・慶子の夫は衆議院議員寺田稔

来歴・人物編集

兵庫県神戸市生まれ。父・粟根信行は行彦の7歳時に死去し、その後、父の郷里である広島市へ移る。1945年8月6日原爆投下時は母の妹宅近くの豊田郡(現三原市本郷町(現在の広島空港周辺)に疎開していたので、被爆を免れた。1951年東京都へ転居。東京都立日比谷高等学校東京大学法学部を卒業し、1961年大蔵省へ入省。1964年から外務省に出向し、ニューヨーク総領事館に勤務。1968年5月に大蔵省に復職する。元首相・池田勇人の次女・紀子と結婚し、以後池田姓を名乗る。大蔵省では広島国税局間税部長や大平正芳蔵相秘書官を務め、1975年に大蔵省を依願退職。

1976年第34回衆議院議員総選挙自由民主党の公認を受け、義父の地盤を引き継いで旧広島県第2区から出馬し、初当選を果たした(当選同期に愛知和男鳩山邦夫中村喜四郎中島衛西田司堀内光雄相澤英之津島雄二鹿野道彦塚原俊平中西啓介与謝野馨渡辺秀央甘利正など)。以後10期連続当選[1]。当選後は池田勇人が設立し、大蔵省で大臣秘書官として仕えた大平正芳が会長を務める宏池会大平派)に入会した。

1981年鈴木善幸内閣内閣官房副長官(政務)に就任。1989年宇野内閣総務庁長官に任命され初入閣を果たすが、直後に宇野宗佑首相の女性スキャンダルが発覚し、宇野内閣はわずか69日で退陣に追い込まれた。1990年第2次海部改造内閣防衛庁長官に就任。折りしも湾岸戦争の最中であり、1991年4月、防衛庁長官在任中、海上幕僚長に対し「ペルシャ湾における機雷の除去及びその処理の実施に関する海上自衛隊一般命令」(平成3年4月24日海甲般命第18号)を発令。これにより海上自衛隊のペルシャ湾への派遣が行われ、自衛隊初の海外実任務となった。

1996年第1次橋本内閣外務大臣に就任する。外相在任中は日米防衛協力のための指針(ガイドライン)の見直し作業、ペルー日本大使公邸占拠事件の解決に尽力した(テロリスト側からの池田本人と人質との交換要求は拒否した)。また1996年2月、韓国政府による竹島での接岸施設建設計画が報道された際「竹島は日本固有の領土」と韓国政府に抗議し、建設中止を求めた。これを契機に日本大使館前に韓国人のデモ隊が押し寄せ、日章旗や池田を象った人形を焼いたり、韓国国内で日本糾弾の嵐が吹き荒れた。金泳三大統領も池田の発言に「そうした妄言は容認できない。断固として対処していく」と反発した。この時が竹島の領有権問題を解決する好機だったといわれているが、反日の動きが激しくなると橋本内閣は竹島問題に触れるのを避け、日本側が譲歩する形で事態の鎮静化が図られた。外相は第2次橋本内閣まで務めた。

1998年小渕恵三自由民主党総裁の下で自由民主党政務調査会長に就任。翌1999年の自由民主党総裁選挙では、政調会長在任中だった池田は宏池会会長の加藤紘一に自重を求めるが、加藤は応じず出馬を強行し、小渕に敗れる。その後、自自公連立政権発足を受けて小渕は内閣改造、党役員人事を行い、池田を総務会長に横滑りさせた(後任の政調会長には亀井静香が就任)。この際、加藤は総務会長に小里貞利を推したが、小渕は自分に反旗を翻した加藤の推薦を退け、加藤に出馬辞退を求めた池田を一本釣りする形で起用した。しかし、総務会長横滑りにより池田は加藤の怒りを買うことになった。小渕首相が危篤に陥った際、党三役の1人であったものの、後継首班を内定したいわゆる五人組には体調が悪かったこともあり出席せず、随時電話連絡を受ける形で「森首班」に同意。2000年第1次森内閣発足後も総務会長に留任したが、第2次森内閣の発足に伴う党役員人事により離任。

2000年11月に起きた加藤の乱では加藤紘一とその盟友山崎拓の不信任決議案同調の動きに反発した宮澤喜一元首相や堀内光雄ら反加藤グループの中核を占め、加藤・山崎の動きを頓挫させた。

2004年1月28日、直腸癌のため三井記念病院にて死去。享年66。同年3月18日衆議院本会議における追悼演説は、遺族の希望により、自民党時代に幹事長、副幹事長の関係だった縁で小沢一郎が行った。同年4月に行われた補欠選挙では、義理の姪・慶子の夫である寺田稔が初当選した。

エピソード編集

  • 岳父の池田勇人同様の酒豪であった。
  • 大蔵省出身の財政通であり、外交・安全保障にも精通した政策通であった。反面、大蔵官僚体質が消えず、傲慢な性格とも評されていたが、外務大臣就任以降は人間性にも円熟味を増し、死去翌日の地元紙に「知・義と情の政治家」という表題の追悼コラムが掲載された。ペルー日本大使公邸占拠事件で現地訪問した際、記者会見で滞在日程に関する質問をされ、会見終了後その記者に激怒する騒ぎがあった。現地での記者会見場に入れるのは外相随行記者だけだった筈なのに外務省現地職員の手違いで、随行記者以外のマスコミ関係者が潜入、公式会見ではタブーとされる質問をされた為叱責したものだった。外相や防衛庁長官、党政調会長、党総務会長を歴任し、総裁候補には申し分のないキャリアであったが、岳父が設立した宏池会を継承する直前で病魔に倒れ、志半ばでこの世を去った。
  • 1990年9月、金丸訪朝団の一員として北朝鮮を訪問した池田は、スパイ容疑で拿捕拘束されていた第18富士山丸の紅粉勇船長ら2人の乗組員の釈放を求め、帰国直前まで北朝鮮側と粘り強く交渉した。その結果同年10月11日、小沢一郎自民党幹事長・土井たか子社会党委員長(いずれも当時)が乗るチャーター機で、2人は帰国を果した。

脚注編集

  1. ^ 旧広島2区は池田の他、中川秀直谷川和穂増岡博之(自由民主党)、森井忠良日本社会党)ら有力候補がひしめき、竹下登をして「日本一の殺戮的選挙区」と言わしめるほどの激戦区であったが、旧広島2区の有力候補の中で唯一、池田はトップ当選も落選経験もない。

関連項目編集

議会
先代:
堀之内久男
  衆議院国家基本政策委員長
第4代:2002年
次代:
瓦力
先代:
小泉純一郎
  衆議院大蔵委員長
1986年 - 1987年
次代:
越智通雄
公職
先代:
河野洋平
  外務大臣
第124・125代:1996年 - 1997年
次代:
小渕恵三
先代:
石川要三
  防衛庁長官
第50代:1990年 - 1991年
次代:
宮下創平
先代:
金丸三郎
  総務庁長官
第7代:1989年
次代:
水野清
先代:
瓦力
  内閣官房副長官 (政務担当)
1981年 - 1982年
次代:
藤波孝生
党職
先代:
深谷隆司
自由民主党総務会長
第40代:1999年 - 2000年
次代:
小里貞利
先代:
山崎拓
自由民主党政務調査会長
第42代:1998年 - 1999年
次代:
亀井静香