河口俊彦

日本の将棋棋士(1936−2015)

河口 俊彦(かわぐち としひこ、1936年11月23日 - 2015年1月30日)は、将棋棋士。2002年、引退。将棋ライター。神奈川県横須賀市出身。小堀清一九段門下。棋士番号95。

 河口俊彦 八段(追贈)
名前 河口俊彦
生年月日 (1936-11-23) 1936年11月23日
没年月日 (2015-01-30) 2015年1月30日(78歳没)
プロ入り年月日 1966年10月1日(29歳)
引退年月日 2002年3月31日(65歳)
棋士番号 95
出身地 神奈川県横須賀市
所属 日本将棋連盟(関東)
師匠 小堀清一九段
段位 八段(追贈)
棋士DB 河口俊彦
戦績
通算成績 367勝563敗(.395)
順位戦最高クラス C級1組(19期)
2015年2月1日現在
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棋歴編集

奨励会に16年在籍し、30歳でようやく四段に昇段しプロ棋士となった。これを機に奨励会在籍に年齢制限が設けられたこともあり、長い間最長記録となっていた(奨励会の在籍年数は、1992年に伊藤能が17年という新記録を作りこれを超えた)。

1971年度(第13期)王位戦予選では、当時A級に在位していた加藤一二三を、1975年度(第8回)早指し戦予選では元名人塚田正夫を、第1回(1982年度)全日プロ2回戦では名人失冠直後で王位のタイトルを有していた中原誠を、それぞれ破る殊勲を挙げた。

河口には棋戦優勝・タイトル挑戦など、卓越した実績はないものの、順位戦では参加10期目となる1976年度(第36期)昇降級リーグ戦4組(現在のC級2組に該当)で8勝2敗(33名中2位)の好成績を収め、41歳の高齢で昇級を決める。以降19期にわたりC級1組に在籍し続けた。

C級1組在籍2期目で迎えた1978年度(第38期)順位戦では、前期からの連続昇級を遂げた谷川浩司に当期順位戦における唯一の黒星を喫させた。

難関と言われた十段戦の予選準決勝まで進んだことが2回ある(第14期、第18期)。

2002年3月に現役を引退し、将棋関係の著述に専念。

2015年1月30日、腹部大動脈瘤のため死去。78歳没[1]。没後、日本将棋連盟より、八段を追贈される[2]

棋戦本戦出場歴編集

著述活動編集

  • 現役棋士時代から将棋観戦記、エッセイなどで活躍。一般に報道されない日々の対局の模様を将棋棋士の生きかたを含めて活き活きと描いた「対局日誌」をペンネーム・川口篤(当時)で「将棋マガジン」誌に1978年2月の創刊号から連載を開始し注目される。その後、いったん連載を中止するが、「将棋世界」誌に1995年1月から「新・対局日誌」として再度掲載、2006年7月号まで30年近くにわたる連載となった。文章は自然でありながら、対局場面や心理描写が的確にかつ詳細に記述されており、連載が長期間続いたことからも分かるとおり、高い評価を得ていた。
  • 1987年、東公平らと「将棋ペンクラブ」を創設。初代会長をつとめた。
  • 棋士や将棋記者からは「老師」と呼ばれることがある。
  • 将棋の著述活動の功績により引退後に将棋大賞(東京記者会賞)を受賞している[3]。また大山康晴と周辺の人物を描いた「大山康晴の晩節」で将棋ペンクラブ大賞を受賞した。

人物編集

  • 趣味は囲碁で、真部一男によると将棋界でもかなりの打ち手とされている。アマチュアの神奈川県代表となったこともある(ちなみに囲碁の強い棋士としては河口、真部の他、花村元司大山康晴升田幸三北村文男(囲碁・将棋双方のプロだった)、丸田祐三佐藤庄平二上達也らが挙げられる。現役では土佐浩司の他、囲碁部が結成され活動している)。
  • 観戦していた対局が終了した後に対局者たちと早朝まで酒場ですごす場面が著作に多く描かれているが、本人は下戸で、アルコールは飲めない体質だった。

昇段履歴編集

主な成績編集

  • 通算成績 367勝563敗[4]

将棋大賞編集

  • 第32回(2004年度) 東京記者会賞[4]

その他編集

著書編集

自著編集

監修編集

脚注編集

外部リンク編集