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河崎 祐長(かわさき すけなが)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将日向伊東氏の家臣。

 
河崎祐長
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文2年(1533年
死没 元和元年(1615年
別名 川崎祐長
官位 駿河守
主君 伊東義祐祐兵祐慶
日向飫肥藩
氏族 河崎氏
兄弟 伊東義祐側室、祐長
良兼祐為伊東祐豊良昌祐賢
良政伊東義賢
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略歴編集

河崎氏伊東祐重日向国下向に際し伊東氏に従って京より下向以来、下向の四天王として家中で重きをなした[1]が、祐長の姉が伊東義祐の側室として嫁ぎ祐兵を生んだことで、伊東氏と一層関係を強めた。

祐長は、伊東氏が日向をほぼ支配し、四十八城を置いた時には目井城主に任ぜられていた[1]が、天正5年(1577年)の伊東氏没落時は目井にいたため豊後国退去には同行せず、外ノ浦の弥太夫という人物を頼み、海路をとって豊後に向かった。

翌天正6年(1578年)、大友氏島津氏との合戦で大敗すると(耳川の戦い)、伊東氏家中でも多くの家臣が戦死、自決した。結果的にこの敗戦の発端となった伊東義祐・祐兵親子は疫病神として大友氏から疎まれるようになり、その上大友義統が祐兵を殺して祐兵夫人・阿虎(伊東義益嫡女)を奪い取ろうとしているとの風聞が聞こえてきたため、祐長は一計を案じて義祐一家の脱出の手引きをした。義祐・祐兵夫妻や従者20余人と共に豊予海峡を渡り、一行は伊予国道後河野氏を頼った。伊予に渡った主従の生活は窮乏し祐長は酒造りを営んでその生活を支えたという。この頃、祐長は三峯という山伏を雇い、大峯修行の護摩を焼いて毎年供養をしていた。この三峯が播磨国で伊東一族(尾張伊東氏)の伊東長実に出会い、その斡旋で伊東祐兵ら主従は織田氏へ仕官することになる。

本能寺の変以降、伊東氏は羽柴秀吉に仕え、山崎の合戦や賤岳の戦いに従軍して功を立てると共に九州平定を経て、取立て大名として旧領の飫肥に再興を果たした。伊予での浪人時代から祐兵に従ってきた祐長は伊東家再興における第一の功臣とされ、以後は清武城主に任ぜられた。文禄・慶長の役の際は高齢のため日向にあって留守を預かり、代わって子権助が朝鮮に渡って軍役を務めた。稲津重政が飫肥藩内で強い影響力を持つようになると、祐長は讒言によって一時日向を出奔したが、のちに帰参した。

元和元年(1615年)、死去。

脚注編集

  1. ^ a b 『日向記』