足利 法尊(あしかが ほうそん、応永3年12月30日1397年1月29日) - 応永25年2月15日1418年3月22日))は、室町時代前期の真言宗僧侶仁和寺門跡准后室町幕府第3代将軍足利義満の子。母は『系図纂要』によれば御台所日野業子だが異説もある。また生年については応永4年(1398年)説もある。

義満の後継を巡って義持義嗣と並ぶ第3の候補者的な立場にあったとする見方もある[1]が、義満の死の翌年応永16年(1409年)11月7日に仁和寺門跡永助法親王から得度を受けて仁和寺に入る(『教言日記』)。応永19年(1412年)4月16日には准后宣下を受けている(『後常瑜伽院御室日記抄録』)。これは3歳年上で後に天台座主となった義円(後の6代将軍足利義教)よりも早い待遇だった。苦修錬行を重ね、応永20年(1413年)4月22日に永助法親王から伝法灌頂を受けて仁和寺門跡を継承する。天皇の子以外で仁和寺門跡になったのは鎌倉時代摂政関白九条道家の子法助の例があるのみという異例の昇進だった[2]が、その5年後に師に先立って23歳で死去した。このため歴代の御室門跡には数えられていない。

法尊の異例の速さの昇進は将軍職の継承を放棄した代償だと言われている。また原則として天皇の子しか就けない仁和寺門跡の地位[3]に父・義満ではなく異母兄・義持の後ろ盾で就いた事実も注目される。

脚注 編集

  1. ^ 小林保夫 著「室町幕府将軍専制化の契機について –足利義持期の二つの事件をめぐって-」、上横手雅敬 編『中世公武権力の構造と展開』吉川弘文館、2001年、175-177頁。ISBN 978-4-642-02805-9 
  2. ^ 結果的にこれが近代以前における最後の臣下出身の門跡ともなった。
  3. ^ 天皇の猶子や宮家の子弟に資格が広げられるのは法尊よりも後の時代のことである。

参考文献 編集

  • 「足利氏」『日本史諸家系図人名辞典』小和田哲男 監修、講談社、2003年、74頁。ISBN 978-4-06-211578-0 
  • 「法尊」『講談社日本人名大辞典』上田正昭 ほか監修、講談社、2001年、1678頁。ISBN 978-4-06-210800-3 
  • 谷山恵林 著「足利法尊」、平凡社 編『日本人名大事典』 1巻、平凡社、1979年、69頁。 
  • 日本仏教人名辞典編纂委員会 編「法尊」『日本仏教人名辞典』法蔵館、1992年、717頁。ISBN 978-4-8318-7007-0 
  • 密教辞典編纂会 編「法尊」『密教大辞典』(縮刷版)法蔵館、1983年、2025頁。ISBN 978-4-8318-7020-9 
  • 鷲尾順敬 編「法尊」『日本仏家人名辞書』(増訂)東京美術、1979年(原著1917年)、1053頁。ISBN 978-4-8087-0095-9  - 初版は光融館より刊行。