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波多野 稙通(はたの たねみち)は、戦国時代武将。別名の波多野 元清(はたの もときよ)の名でも知られる。

 
波多野稙通
時代 戦国時代
生誕 明応5年(1496年
死没 享禄3年(1530年
別名 波多野元清
幕府 室町幕府 評定衆
氏族 丹波波多野氏
父母 父:波多野秀長
兄弟 稙通柳本賢治香西元盛
元秀晴通三好長慶正室

目次

生涯編集

波多野秀長の子として誕生。室町幕府10代将軍足利義稙から偏諱を受け稙通と名乗る。

始め、仙甫寿登の弟子となって名を寿浩・号を養賢と名乗ったが、15歳の時に波多野氏を継ぐことになって還俗したという(馬部隆弘は早世などで家督を継げなかった長兄がいたと想定する)[1]

丹波国西部を支配する国人の一つに過ぎなかったが智勇兼備の名将で、八上城を築城し、さらには丹波における国人を次々と支配下に置き、細川高国から信頼を得て次弟の香西元盛は永正4年(1507年)に死去した香西元長の名跡を、同じく三弟の柳本賢治は永正17年(1520年)に死去した柳本長治の名跡を継いでいる(賢治を兄、元盛を弟とする文献もあるが、当時の日記における記述[2]や実際に2人が両家に入嗣した時期、更には香西氏と柳本氏の家格の差から元盛が兄、賢治が弟とするのが正しい[1])。

大永6年(1526年)、香西元盛が細川尹賢の讒言を信じた細川高国に殺害されると、柳本賢治と共に蜂起し細川氏の勢力を丹波から駆逐して丹波を統一。当時、幕政の中心にいた高国を三好元長らと共に討って戦国大名として名乗りを上げた。その実力を高国を討って(桂川原の戦い)政権を握った細川晴元にも認められ、室町幕府評定衆にも列せられている。

享禄3年(1530年)に病没した[3][1]

脚注編集

  1. ^ a b c 馬部、2018年、P117.
  2. ^ 『二水記』大永6年11月5日・『細川両家記』大永6年7月13日条。
  3. ^ 『厳助往年記』享禄3年6月2日条・『二水記』享禄3年6月8日条。

参考文献編集

  • 渡邊大門「波多野氏の丹波国支配をめぐって―天文・永禄年間を中心に―」(『鷹陵史学』37号、2011年)
  • 馬部隆弘「細川高国の近習と内衆の再編」(初出:『史敏』通巻13号(2015年)/所収:馬部『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02950-6

関連項目編集