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波多野 秀治(はたの ひではる)は、 戦国時代から安土桃山時代にかけての丹波国大名波多野氏最後の当主。

 
波多野秀治
Hatano Hideharu.jpg
波多野秀治肖像(東京大学史料編纂所所蔵)
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 天正7年6月2日1579年6月25日
別名 千熊丸(幼名)
戒名 大雄院殿英山玄功大居士
墓所 兵庫県丹波篠山市の波多野家墓所
官位 右衛門大夫
氏族 波多野氏
父母 父:波多野元秀
兄弟 秀治秀尚秀香
女子(別所長治室)、定吉?

目次

生涯編集

波多野元秀の子と思われる。

波多野氏は、秀治の祖父・波多野秀忠の死後、細川晴元を支援して三好長慶と抗争し、弘治年間頃に松永長頼に敗れて没落する。 しかし、長頼戦死後の永禄9年(1566年)、元秀は波多野家の居城である八上城を奪還した。また、播磨国別所長治を娘婿として同盟を結んでいる。

永禄11年(1568年)、織田信長足利義昭を奉じて上洛してくると、波多野氏は織田氏に従った。 秀治の確実な初見は、元亀元年11月24日の秀治の太刀・馬贈呈の返礼をする織田信長黒印状である[1]。 天正3年(1575年)には信長が派遣してきた明智光秀の軍勢に加わって丹波国で織田氏に対抗する豪族の討伐を担当した。だが、その一方で丹波国の豪族達への協力意思を通達しており、天正4年(1576年)1月に叛旗を翻し、光秀の軍勢を攻撃して撃退した(黒井城の戦い)。

これに激怒した信長は、光秀に再度の丹波侵攻を命じた。これに対し秀治は八上城に籠城し、国人衆らと共に抵抗を展開する。秀治には丹波の入り組んだ山岳地帯に理解と知識があり、これを生かした用兵で敵軍を翻弄し、織田軍の攻撃を1年半にも亘って耐え抜いた。しかし長期の籠城戦で兵糧が尽き、味方の丹後・但馬諸豪族も次第に撃破され、また光秀の調略で織田氏に寝返った豪族も出て窮地に陥り、天正7年(1579年)に遂に光秀に降伏した。

その後、弟の秀尚と共に安土城に送られ、信長の命令で同年6月2日に安土の浄巌院慈恩寺でに処された。辞世は、「よわりける 心の闇に 迷はねば いで物見せん 後の世にこそ」。

丹波篠山市に伝わる伝承によると、秀治の次男・甚蔵は乳母に抱きかかえられ味間へ落ち延びた。のち、波多野定吉と名乗り、篠山藩に仕えたという[2]

なお、「氷上郡史」などでは永禄3年(1560年)に秀治が波多野宗高毛利元就と共に正親町天皇の即位に献金・警固を行い正四位下を贈され、大正期に従三位を追贈されたと伝わるが、前述の通り永禄3年時の波多野氏当主は秀治ではなく元秀であり、毛利氏と異なり波多野氏の献金の事実は史料で確認できず、更に当時の波多野氏は京を支配する三好氏と対立して没落しているなど到底警固ができる状況にはなく、事実とはみなし得ない[3]

家臣編集

国人衆
  • 赤井直正(厳密には直正の時代の赤井氏の支配圏は波多野氏のそれを上回っており、波多野氏の1郡に対し、赤井氏は3郡であって「家臣」ではない。)
  • 荒木氏綱
家臣

脚注編集

  1. ^ 「名古屋市博物館所蔵文書」
  2. ^ 篠山の民話集 ■ 八上城の危機を救おうとした四十九院の修業僧 - 篠山市 田中貞典
  3. ^ 細見末雄「まぼろしの霧山城と波多野宗高」(丹波史を探る)

関連項目編集