津堂城山古墳(つどうしろやまこふん)は、大阪府藤井寺市にある古墳。形状は前方後円墳世界文化遺産古市古墳群を構成する古墳の1つ。

津堂城山古墳
Shiroyama kofun.png
上空から見た城山古墳。古墳周囲の住宅の並び方で外側周濠の存在がわかる。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成
所属 古市古墳群
所在地 大阪府藤井寺市津堂
位置 北緯34度34分55.26秒
東経135度35分36.33秒
座標: 北緯34度34分55.26秒 東経135度35分36.33秒
形状 前方後円墳
規模 墳丘長208m
高さ16.9m
埋葬施設 竪穴式石室(内部に石棺
出土品 埴輪・銅鏡・玉類・鉄鏃等
築造時期 4世紀後半
被葬者宮内庁推定)第19代允恭天皇
陵墓 宮内庁治定「藤井寺陵墓参考地」
史跡 国の史跡「城山古墳」(「古市古墳群」に包含)
特記事項 全国第31位の規模[1]
地図
津堂城山 古墳の位置(大阪府内)
津堂城山 古墳
津堂城山
古墳
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実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「藤井寺陵墓参考地」(被葬候補者:第19代允恭天皇)として陵墓参考地に治定されている。また国の史跡に指定されている。

概要編集

前方部は南東を向き、二重の周濠が墳丘を囲んでいる。外側の周濠は宅地や田畑となっているが、これを含めると古墳の全長は400m以上になる。

これまでの発掘調査などから築造は4世紀後半とみられ、古市古墳群の中でも初期の古墳であり、誉田山古墳よりも先行する。室町時代には古墳の地形を利用して小山城が築かれたため、墳丘の一部が掘削されている。明治初期の天皇陵の治定作業では陵墓とされなかったが、1912年に、神社に建立する石碑の材料とするため、後円部の墳丘から石板を発掘したことがきっかけで竪穴式石室と巨大な長持形石棺が発見され、鏡や鏃などの副葬品が多数出土した。そのため、後に「藤井寺陵墓参考地」に治定された。

1980年に大阪府教育委員会が、1983年には藤井寺市教育委員会が発掘調査を実施。造り出しや二重の周濠(中堤幅30m、外濠25m)、石葺の外側堤(幅20m)の存在が確認された。また、周濠内の前方部左右近くの島状遺構(方墳形の祭壇)からは3体の水鳥形埴輪が出土。このほかにも衝立型や家形・盾形・衣蓋形、靫型の埴輪、円筒型など多彩な形象埴輪が発見された。

これらのことから、大和から河内へと古墳築造が移った初期の大王の陵墓ではないかと考えられている。

1958年1月21日に国の史跡に指定。2001年1月29日には、個々の古墳の指定を統合した古市古墳群全体として史跡に指定されている。

規模編集

 
墳丘全景(東側から撮影)
右が後円部
  • 墳丘長208m
  • 前方部 - 幅117m、高さ12.7m
  • 後円部 - 径128m、高さ16.9m

主な出土品編集

施設など編集

周濠を通って墳丘へと至る道筋はいくつかあり、自由に立ち入ることができるため、古くから子供の遊び場や近隣の人々の憩いの場となっている。ただし、後円部墳丘の頂上部は金網で囲まれ、宮内庁が陵墓参考地として管理しているため立ち入ることができない。

史跡城山古墳ガイダンス棟「まほらしろやま」
後円部北にある展示施設。入館無料。
津堂八幡神社
後円部の北側中腹にある。当社にある石碑は、後円部から掘り出した石板で竪穴式石室の一部(天井部分)とされる。
花しょうぶ園
府道大阪羽曳野線に面した東側の周濠約4,000m2ハナショウブスイレンなどが植えられている。1991年4月に完成。
津堂草花園
1998年4月に古墳北側の集合部分に完成。約4,000m2
津堂八幡神社の石碑
花しょうぶ園と墳丘部
津堂草花園

文化財編集

重要文化財(国指定)編集

国の史跡編集

  • 城山古墳(史跡「古市古墳群」のうち)
    1958年(昭和33年)1月21日に「城山古墳」として国の史跡に指定、1966年(昭和41年)3月14日に史跡範囲の追加指定。2001年(平成13年)1月29日に城山古墳含む既指定の古墳11件を統合し、これに青山古墳・蕃所山古墳の2件を追加指定して、指定名称を「古市古墳群」に変更。2015年(平成27年)3月10日に史跡範囲の追加指定[3]

交通アクセス編集

脚注編集

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  1. ^ 古墳大きさランキング(日本全国版)(堺市ホームページ、2018年5月13日更新版)。
  2. ^ 埴輪水鳥/大阪府城山古墳出土 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  3. ^ 古市古墳群 - 国指定文化財等データベース(文化庁

外部リンク編集