津田正信

室町時代の武将。周防守。正成の子・正儀の三男?

津田 正信(つだ まさのぶ、応永24年〈1417年〉 - 文亀3年4月20日1503年5月15日[1])は、室町時代から戦国時代にかけての武将官途名周防守[2]河内国津田城主とされるが、実在には疑問が呈されている。

概要 編集

正信の出自について、津田村尊光寺所蔵の「国見城主歴代略縁」には楠木正成の「世々ノ孫」とあり[3]、『紀伊続風土記』には正成の3代の孫とも、正成の子[4]である正儀の子とも記される[5][6]。正信の時に初めて津田氏を称したという[7]

延徳2年(1490年)、河内国交野郡の津田(現在の大阪府枚方市東部)に到来した正信は同地の国見山津田城を築き[8]平安時代末期より[9]この地を支配した中原氏に取って代わったとされる[8]。正信は津田村・尊延寺村・芝村・穂谷村の4村を領し[10]、文亀3年(1503年)4月20日、87歳で死去した[1]

正信の跡は子の備後守正忠が継ぎ、その跡を正忠の長子・周防守正明が継ぐ[11]。正明は三好長慶に従い、津田地域に加えて牧八郷(枚方市中西部)や友呂岐六郷(大阪府寝屋川市北部)を安堵され[12]、合わせて一万を支配したとされる[13]。正明の子の主水頭正時は、天正3年(1575年)に織田信長に津田城を焼かれて、拠点を麓の本丸山城に移し、天正10年(1582年)の山崎の戦い明智光秀に味方して没落した[14]。正時の子・新八郎正胤は、元和元年(1615年)の大坂の陣で豊臣方についたため山城国八幡に幽居することになり、それ以後、津田氏は津田に戻らなかったとされる[15]

なお、正信を含む津田城主の津田氏は同時代史料では姿が見えず、後世の由緒書からその経歴が築かれた[16]。しかし、これらの由緒書は17世紀末以降の津田山[注釈 1]をめぐる山論において、自陣営を有利にするために作られたものであり、津田城の由緒や津田城主の津田氏は後世の創作であると指摘されている[18][注釈 2]

また正信は、種子島から根来に鉄砲を伝えたとされる紀州津田監物一族の祖ともいわれる[22]。この紀州津田氏と正信のつながりは18世紀後半以降に唱えられるようになったと考えられる(後述)。

津田正信の墓と紀州津田氏 編集

津田村にはかつて自然石十数個を積んだ津田正信の墓とされるものがあり[23]、その側には紀州津田氏の建てた石灯籠があった[24][注釈 3]。道路の拡張に伴ってこの墓はなくなり、道路脇には新たに「津田城主 津田周防守正信之墓」と刻まれた石碑が設置されている[26]

津田氏が津田城を居城にしたという記事は、享保20年(1735年)に刊行の始まった『五畿内志』に掲載され[27][28]天明元年(1781年)頃より、それを見たと思われる紀州津田氏が先祖の墓を探して津田村を訪れるようになった[29]。紀州津田氏は津田村の領主である旗本の久貝氏を頼り、天明3年(1783年)6月および9月、久貝氏が津田村に対し津田氏の墓を探すよう命じている[30]。村側はその度に墓がないと回答していたが、なおも墓探しを命じられたとみられ[30]、その年のうちに津田氏の墓を発見したとの報告を行った[29]。正信の墓はこの時に作られたと考えられる[31]

紀州津田氏はこの墓の「発見」を契機に、津田監物を河内出身と称するようになったとみられる[24]正徳4年(1714年)成立の『武芸小伝』では津田監物は「紀州那賀郡小倉人也」とされ[26][32]、河内とのつながりに触れられていないが[33]文化9年(1812年)発行の『紀伊国名所図会』で監物は河内津田城主である正信の長男と記され[26]天保10年(1839年)完成[33]の『紀伊続風土記』には監物を正信6代の孫とする説が記載されるようになっている[5][6]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 津田山は、山頂部の国見山を含む周辺の山地一帯を指す[17]
  2. ^ 北河内では、伏見津田出身で明智光秀に近い人物とみられる津田主水佑重兼の活動が見え、また、津田村の指導者層と考えられる津田氏の姿が近世初頭まで確認でき、これらの津田氏から津田城主の津田氏が創出されたと推測される[19]。また津田城は、通常山頂に築かれる曲輪が谷の最奥部に位置して防衛が困難な形になるなど、城郭としては特異な構造をしているが[20]、これは山岳寺院の跡地を駐屯地として利用したことによる可能性が高いと考えられる[21]
  3. ^ 灯籠には「津田周防守正信霊前天明五年己〔ママ〕二月廿五日津田太郎左衛門橘正興」との刻銘があった[25]

出典 編集

  1. ^ a b 「国見城主歴代略縁」(馬部 2019, pp. 67–68)。
  2. ^ 太田 1936, pp. 3769–3770; 枚方市史編纂委員会 1972, p. 537; 馬部 2019, pp. 63–64, 67; 馬部 2020, p. 23.
  3. ^ 馬部 2019, pp. 65, 67.
  4. ^ 楠木正儀. コトバンクより2024年3月1日閲覧
  5. ^ a b 太田 1936, p. 3770.
  6. ^ a b 仁井田好古 編『紀伊続風土記(一)』歴史図書社、1970年、200、658、743頁。全国書誌番号:73021605 
  7. ^ 太田 1936, p. 3769; 馬部 2019, p. 67.
  8. ^ a b 枚方市史編纂委員会 1972, p. 537; 馬部 2019, pp. 63–64, 67; 馬部 2020, p. 23.
  9. ^ 枚方市史編纂委員会 1972, pp. 386–391.
  10. ^ 枚方市史編纂委員会 1972, p. 537; 馬部 2019, p. 63.
  11. ^ 馬部 2019, p. 68.
  12. ^ 馬部 2019, pp. 64, 68; 馬部 2020, pp. 23–24.
  13. ^ 馬部 2019, pp. 64, 68.
  14. ^ 馬部 2019, pp. 64, 68–69.
  15. ^ 馬部 2019, pp. 64, 69.
  16. ^ 馬部 2019, pp. 56–57, 63–64.
  17. ^ 馬部 2020, p. 23.
  18. ^ 馬部 2019, pp. 64–101; 馬部 2020, pp. 25–27.
  19. ^ 馬部 2019, pp. 93–98.
  20. ^ 馬部 2019, pp. 60–61; 馬部 2020, pp. 24–25.
  21. ^ 馬部 2019, pp. 98–100; 馬部 2020, pp. 27–28.
  22. ^ 太田 1936, p. 3770; 馬部 2019, p. 105; 馬部 2020, pp. 171–172.
  23. ^ 馬部 2019, p. 74; 馬部 2020, pp. 171–172.
  24. ^ a b 馬部 2020, p. 172.
  25. ^ 立命館大学地理学同好会 編『生駒山脈 その地理と歴史を語る』積善館、1944年、379頁。全国書誌番号:46007106 
  26. ^ a b c 馬部 2019, p. 105; 馬部 2020, p. 172.
  27. ^ 馬部 2020, pp. 25–26, 171.
  28. ^ 正宗敦夫 編『五畿内志 下巻』日本古典全集刊行会〈日本古典全集 第三期〉、1930年、421頁。全国書誌番号:47026162https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179444/33 
  29. ^ a b 馬部 2020, p. 171.
  30. ^ a b 馬部 2019, pp. 75–76; 馬部 2020, p. 171.
  31. ^ 馬部 2019, p. 76; 馬部 2020, p. 172.
  32. ^ 日夏繁高『本朝武芸小伝大日本武徳会本部、1920年。全国書誌番号:43000365https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/927114/120 110丁表–裏。
  33. ^ a b 馬部 2019, p. 105.

参考文献 編集