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画像提供依頼:織物の画像提供をお願いします。2017年5月

津綟子(つもじ)は、現在の三重県津市安濃地域周辺で明治ごろまで綟り織(もじりおり)の手法で織られていた薄く透きとおる織物である。夏の衣料に適している。材料として麻(アサ)または苧麻(カラムシ)などが使われた。現存するものは三重県立博物館有形文化財として収められた肩衣など、数点のみである。

歴史上いつごろから生産が始まったか不明だが、16世紀末の文献に名前が見られるようになる。江戸時代初期の俳書『毛吹草』(1645年)に「阿野、津戻(つもぢ)肩衣に之を用」とあり、江戸時代を通して全国に広く用いられたことが分かる。しかし綿織物が盛んになるにつれて次第に衰退した。明治期には綿を使ったが、大正にはその需要も衰えた。21世紀に入り、技術の復元が試みられている。

目次

特徴編集

綟り織は絡み織(からみおり)とも呼ばれ、緯(よこ)糸に対して経(たて)糸をねじって絡ませながら織って行くので隙間ができる。通気性が高いため夏の衣服に用いられ、武家の肩衣(かたぎぬ)、帷子(かたびら)、(はかま)などに使用されたほか、蚊帳(かや)としての用途もあった。

三重県の重要文化財に、津綟子肩衣(つもじかたぎぬ)があり、経糸に精緻に製糸された苧麻(ちょま)糸を2本、緯糸に絹糸1本が用いられ布の反対側が透けて見えるほど細かい隙間が生じている[1]

歴史編集

太閤検地に関する文禄3年(1594年)の資料に、「綟子屋年貢仲間上納仕」とあり、すでに16世紀末には生産が行われていたことが確実とされる。正保3年(1646年)の取引資料に「合綟子四拾也、右之代百六拾目也、清水もじや四郎兵へ殿まいる」とあり、旧・安濃郡に属する清水村(現・津市安濃町清水)からの納入を示す。この「もじや四郎兵衛」は後に「古川家」として栄えた一家で、明治末に廃業するまで続いている。明暦2年(1656年)の『勢陽雑記』に「綟子は安濃郡の村々、安濃、内多、太田などいふ村にて織ることを専らとす、津八町、清水村にて染めることを得たり」と、生産の広がりを表す。

天和2年(1682年)、古川家の『事歴覚案』に「御献上、御肩衣、御蚊帳の儀は、天和二戌年、四代前四郎兵衛に始て仰せ付けらる」とある。四代とあることから、1代25年と計算しても、1580年ごろにはすでに生産が定着し、「もじや四郎兵衛」が存在していたことが伺われる。また「献上」とあるのは津藩への献上と考えられ、すでに古くから藩に献上していたことが分かる。貞享2年(1685年)、同じ『時歴覚案』に「将軍家露姫、紀伊中将への結婚祝いとして(中略)萌黄に立浪之ちらし模様に仰せ付けられ(中略)祖父四郎兵衛相勤め、首尾よく差上げ申し候。夫より御綟子屋と唱来申し候」うんぬんと、将軍家へも納入していた。各地大名からの注文に応じた記事もあり、津綟子は全国へ普及していった。

しかし幕末の安政2年(1855年)になると御用の量が半減し、文久2年(1862年)には木綿の進出で生産が激減する事態となった。明治6年(1873年)の記事によれば「御献上廃止、休業同様、年貢上納勤め難く」とある。明治14年(1881年)には、綿糸を使った津綟子の記事が見られ、やむをえず綿糸に移行していったことが分かる。

明治期に入ると綿を使った津綟子の生産が行われたらしく、羽織襦袢手ぬぐい、肌着などの用途が見られるようになったものの、大正年間の文書には「今、需要減じて昔時の如く用いぬ」とされている。

その後ほとんど忘れ去られていたが、近年、地元グループの努力で復元の試み がされつつある[2]

参考文献編集

脚注編集

  1. ^ 三重県立博物館・杉谷政樹「第26話 有形文化財・津綟子肩衣」(2009年2月27日)『歴史の情報蔵』県史編さん班、三重県。2017年10月17日閲覧。
  2. ^ 染色グループ「しおり」作品展