浙江省 (中華民国)

中華民国の省

浙江省(せっこうしょう)は、中華民国に存在した。現在の中華人民共和国浙江省の大部分に相当する。

中華民国 浙江省
1912年 - 1955年
浙江省の位置
浙江省の位置
浙江省の位置
簡体字 浙江
繁体字 浙江
拼音 Zhèjiāng
カタカナ転記 チェーチャン
国家 中華民国
行政級別
政府所在地 杭県1912-1927
杭州市1927-1937
金華県1937-1938
永康県1938-1941
松陽県1941
永康県1941-1942
松陽県1942
雲和県1942-1945
杭州市1945-1949
定海県1949-1950
温嶺県1953-1954
台湾1954-1955
建置 1912年
消滅 1955年 
面積
- 総面積 102,646 km²
人口
大陸失陥後の中華民国浙江省(1949年-1955年)

管轄区域

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清代浙江省の管轄区域をほぼ継承している。

東は東シナ海、西は安徽省及び江西省、北は江蘇省、南は福建省に接していた。

行政沿革

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1911年宣統3年)、辛亥革命が勃発すると11月4日に浙江新群も決起、17日に杭州に浙江軍政府を設置、全省を嘉興、湖州、金華、衢州、厳州、処州、寧波、紹興、温州、台州の各軍政分府を設置した。1912年民国元年)7月、『浙江都督府官制』に依拠し、都督府の下に民政、財政等の4司3処を設置した。1914年(民国3年)5月23日、民政長を巡按使と改称、更に1916年(民国5年)7月6日に省長と改称されている。

1926年(民国15年)12月15日、中国国民党浙江省党本部は浙江省の最高政務機関として省臨時政治委員会の設立準備に着手、翌年1月8日に鄞県に成立したが、省長は杭県での政務を続行していた。1927年(民国16年)に発生した上海クーデター後は南京国民政府に属した。4月18日、南京政府は臨時政治委員会を解体、新たに省政務委員会の設立準備が進められ27日に正式に成立している。7月25日、政務委員会は浙江省政府委員会に改編されている。

1937年(民国26年)、日中戦争が勃発すると12月に浙江省は日本軍の勢力下に置かれ、1940年(民国29年)以降は汪兆銘政権の統治下に置かれることとなった。

1945年(民国34年)8月、日本の敗戦に伴い汪兆銘政権も崩壊。浙江省は再び国民政府の実効支配下に置かれ、1946年(民国35年)5月7日に浙江省政府の改編を指示している。

1949年(民国38年)5月3日、人民解放軍は省都杭州市を占領し、既にこの時点で中華民国は浙江省の大部分の地域の実効支配権を喪失していた。浙江省政府は舟山に移転し、舟山群島大陳島中国語版など沿海部の島々を拠点に共産党に対する軍事作戦を継続した。しかし1950年(民国39年)5月になると、舟山戦役中国語版によって舟山群島も人民解放軍に占領され、中華民国が実効支配する領域は大陳列島台州列島)、一江山島中国語版披山島頭門山島漁山列島南麂島など浙江省東岸の一部島嶼のみを維持するにまで追い込まれた。そのため浙江省政府も中華民国国軍とともに一旦台湾へ撤退し、活動を停止した。

1951年(民国40年)9月、中華民国政府は胡宗南を大陳島に派遣して「江浙総部」を設置し、その下に「浙江省政府」を置いて大陳島など温嶺県臨海県平陽県玉環県の4県と漁山、竹嶼の2管区を管轄させた。1953年(民国42年)8月に浙江省政府は台湾に移転し、「浙江省政務処」となったが、さらに1954年(民国43年)9月1日には「浙江省大陳区行政督察専員公署」となり、その管轄下に4県18000数人が置かれた。

1955年(民国44年)1月18日、人民解放軍は一江山島戦役を開始し、1月19日に一江山島を占領した。これを受けて、中華民国政府は2月8日大陳島の放棄を決定し、アメリカ第7艦隊の護衛の下住民及び守備隊は台湾に撤収した。2月11日の撤収完了後、中華民国政府は浙江省大陳区行政督察専員公署及び浙江省政府の廃止を宣言した。

省会

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1912年(民国元年)、省会を杭県に設置。1927年(民国16年)以降は新設された杭州市に移転している。

行政区画

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本部時期

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道制

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1913年(民国2年)1月8日、北京政府が発布した『劃一令』により3月を以って全国に道制施行が決定されたが、財政問題を内包していた浙江省では道制実施に反対、財政困難を理由に暫時その施行が猶予[1]。され、1914年(民国3年)5月23日、『道官制』に依拠し道制が施行された。1916年(民国5年)5月30日、『道官制』が国会の承認を得ていないこと、また道尹の職権が省民政庁と重複することから道制が廃止されている[2]。しかし1917年(民国6年)1月22日、北京政府は道制の復活を指示している[3]。1926年(民国15年)末からの北伐により、北伐軍が1927年(民国16年)浙江省に進駐すると道制は自然消滅した。

県級行政区画

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1912年(民国元年)、府庁制度の廃止に伴い、各行政区画は県制に統一された[1]。中華人民共和国成立直前の管轄県は下記の1市79県。(50音順)

行政督察区

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行政督察制度は省政府と県政府の間に中間行政機構を設置し、各県を監督させる制度である。1932年(民国21年)5月31日、『浙江省県政督察専員章程』に依拠し、全省に12区の行政督察区を設置した。同年8月行政院が発布した『行政督察区暫行条例』により全省は6区(後に7区)に再編されている。

その後1935年(民国24年)6月に9区、1940年(民国29年)1月に10区、1943年(民国32年)に13区と改編された。

1947年(民国36年)、実効支配を回復した国民政府は杭州市、杭県、蕭山県、海寧県を省政府直轄とし、それ以外を6区に分割され、1949年(民国38年)の中華人民共和国建国まで沿襲された。

大陳時期

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県級行政区画

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行政督察区

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脚注

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  1. ^ a b 『臨時政府内務行政紀要』
  2. ^ 『東方雑誌』13巻第7号 1916年7月10日
  3. ^ 『政府公報』第373号 1917年1月23日
  4. ^ 『国民政府公報』第689号 1931年2月4日

関連項目

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