浜松連続殺人事件

浜松連続殺人事件(はままつれんぞくさつじんじけん)は、日中戦争及び第二次世界大戦下の日本で発生した連続殺人事件。当時の日本は戦時体制下にあり犯罪報道が制限されていたためあまり知られていない[1]

1942年1月の静岡県警察部浜松署。左端が紅林麻雄

事件の概要編集

静岡県浜松地方において、1941年昭和16年)8月から翌1942年(昭和17年)8月にかけて、短刀で10名が殺害され、7名が傷害を負う事件が発生した。

1941年(昭和16年)8月18日、犯人は芸妓置屋に侵入し1名を殺害、1名を負傷させる。翌8月19日深夜に料理屋で3名を刺殺。翌月の9月27日、犯人は外部からの侵入と見せかけて自宅の兄を刺殺、両親、姉、兄の妻およびその子供の計5名に重軽傷を負わせた。犯人は1942年(昭和17年)8月25日にも同様の手口で4名を殺害した(とある家の夫婦とその娘と息子が殺害され、1人の娘を強姦し負傷させた)が、同年10月12日に逮捕された。

自宅での犯行は平素の鬱憤を晴らすため、その他は強盗強姦殺人が目的であった[2]

犯人暦編集

犯人聾啞者(耳が不自由な)の青年であった中村誠策(なかむら せいさく、最後の犯行当時満18歳)であった。青年は兄弟7人の6男で、生まれつきの聾啞者で家族から冷たくあつかわれていた。簡単な言葉しか発音できなかったものの知能は高く、聾啞学校では首席であった[1]。しかし、他人に対する思いやりなど基本的な人間性が欠如しており、青年を誰よりもいたわっていた長兄を殺害するなど、肉親に対する情愛も欠如していた[1]。また、この9人の連続殺人の他にも1938年(昭和13年)8月22日に2人の女性を刺殺したことを自供している。(この2人を含めると犠牲者は11名となり、1941年の被害者は3人目の犠牲者となる)

青年を精神鑑定した内村祐之吉益脩夫によれば、生来的に人間的感情や情性に欠ける精神病質性の人格、それに加えて不完全な教育を受けたために抽象的・精神的なものが育たなかったためとし、青年を心身耗弱者とする鑑定書を出した[1]

青年は、戦時下に行われた犯罪について厳罰を課す戦時刑事特別法によって審理された。公判には多くの地域住民が詰めかけ、極刑を望んだ[1]静岡地裁浜松支部被告人を聾啞者ではなく難聴者と認定[3]し、聾啞者の刑を減免する刑法旧第40条[4]を適用せず、死刑判決を下し、まもなく死刑が執行された[1]

処刑日については明確ではないが、静岡県警察史は「1944年7月24日、21歳を最期に刑場の露と消えた」と書いているが、地元静岡新聞にも記事は見られない。

なお、逮捕直後に実父である中村文貞が天竜川投身自殺している[5](厳密には11月11日に入水自殺した)。

その他編集

本事件の捜査ではプロファイリングの日本での先駆である内務省技官吉川澄一が加わり、ごく早期から窃盗目的の犯行だと分析していた。また、当時磐田警察署所属の巡査部長刑事だった紅林麻雄が応援で加わっていたが、第三の事件で犯人の身体検査などを担当しながら不十分なままで捜査対象から外すという失態を演じながらも検事総長から捜査功労賞を授与されている。このことで凶悪事件捜査の名刑事として名をあげたものの、戦後は、二俣事件幸浦事件小島事件などの冤罪事件を発生させている。

脚注編集

  1. ^ a b c d e f 明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典 p671
  2. ^ 『日本の精神鑑定』130~132頁
  3. ^ 「被告人の左耳はある程度の聴力を保有し、またその発音機能も簡単なる単語を発声し得るのみならず、本件犯行当時並びに現在において、被告人は相当の知識を習得し、記憶力よく、事物に対する具体的判断力十分(であるから)、被告人の有する聴力並びに発音機能の障碍(しょうがい)は、いまだこれをもって法律上の聾啞(ろうあ)の程度に達(しない。)」『日本の精神鑑定』 153頁
  4. ^ 「聾啞者ノ行為ハ之ヲ罰セス又ハ其刑ヲ減軽ス」平成7年の刑法改正で削除。
  5. ^ 『日本の精神鑑定』 154頁

参考文献編集

  • 「道徳感情はなぜ人を誤らせるのか」、管賀江留郎、2016年、洋泉社
  • 「明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典」、東京法経学院出版、2002年、670,671頁
  • 「日本の精神鑑定」 内村祐之ら、みすず書房、1973年、127-154頁