浦添良憲
浦添親方良憲(浦添良憲 (うらそえ・りょうけん) 、馬良詮、?−1566年、 嘉靖45年)[1]は琉球王国の政治家、三司官。
概要
編集元は門番だったが、 嘉靖年間、尚清王の世子尚元と良好関係であったことから尚元の養父に任命され、浦添間切の地頭となる。尚元王即位後、養父として尊敬される。
1559年( 嘉靖38年)、良憲は蔡廷會と共に明国に朝貢し同年帰国後、三司官の新城親方安基(毛龍唫)が辞任した為、良憲が三司官に任命される。
1562年(嘉靖41年)他の三司官、澤子、池城親方安棟(毛廉)と共に尚元王の命で首里城の奉神門に石柵を築く。
1566年( 嘉靖45年)、丙寅10月23日病没。尚元王養父だったことから特別に見上森御嶽に埋葬され、尚元王は葬儀に参列した。
系譜
編集脚注
編集- ^ “琉球王国交流史・近代沖縄史料デジタルアーカイブ | 琉球_詳細”. 2024年5月5日閲覧。
参考文献
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- 中山世譜
- 馬姓家譜(小禄家)