浩々洞(こうこうどう)は、清沢満之を中心として開かれた真宗大学[1]の学生らの私塾である。1900年(明治33年)4月設立、1917年(大正6年)解散。

年表 編集

1900年(明治33年)4月、近角常観の洋行に際して本郷森川の寮の留守を引き受け、若き近代真宗求道者達の共同生活が始まる。

1901年(明治34年)1月15日、雑誌『精神界』を発刊する。

1901年(明治34年)11月から毎週日曜日精神講話(後に日曜講話)を開く。

1902年(明治35年)6月、本郷東片町に移転する。

1902年(明治35年)12月、本郷曙町に移転する。

1903年(明治36年)6月6日清沢満之亡くなる。

1904年(明治37年)、巣鴨に移転する。

1909年(明治42年)、小石川に移転する。

1917年(大正6年)、浩々洞閉じる。

  • 暁烏敏の回想によると「議論と大笑の処」であったという。
  • 浩々洞のメンバーを「浩々洞の同人」という。

主なメンバー 編集

  • 1900年(明治33年)4月:清沢満之、月見覚了、原子広宣(侍者)
  • 1900年(明治33年)9月:暁烏敏佐々木月樵多田鼎(浩々洞三羽烏)
  • 1901年(明治34年)10月:近藤純悟
  • 1903年(明治36年)3月:曽我量深
  • 1904年(明治37年)巣鴨移転:加藤智学、隈部慈明
  • 1909年(明治42年)小石川移転:木場了本、京極一蔵、鈴木俊栄
  • 1911年(明治44年):午腸鉄乗、谷内正順

以後:金子大栄赤沼智善山辺習学

脚注 編集

  1. ^ 真宗大学…現在の大谷大学。詳細は、大谷大学「沿革」の節を参照のこと。

参考文献 編集

関連項目 編集