メインメニューを開く

海保宣生(かいほ のぶお 1941年12月21日[1]- 2015年4月19日)は、元バスケットボール選手、社団法人山形県スポーツ振興21世紀協会元理事長。

目次

人物編集

東京都出身。立教大学経済学部経済学科を卒業。

2015年4月19日、胆管癌のため、73歳で死去[2][3]

スポーツとの係り編集

住友金属工業に入社。

1964年東京オリンピックバスケットボール選手として活躍後、立教大学バスケットボール部監督。住友金属バスケットボール部監督を歴任。その後、1996年4月より鹿島アントラーズFC常務取締役として活躍(〜2000年10月まで)

鹿島アントラーズFC退職後は、バスケットボール界に復帰し、2001年5月からバスケットボール女子日本リーグ機構専務理事、2003年5月からバスケットボール女子日本リーグ機構顧問に就任。

2006年5月より社団法人山形県スポーツ振興21世紀協会理事長に就任。

モンテディオ山形(スポーツ山形21)理事長として編集

2006年、J2(当時)のモンテディオ山形を運営するスポーツ山形21の理事長を退任した金森義弘の後任選びの際、齋藤弘山形県知事(当時)が日本サッカー協会川淵三郎会長(当時)に人選を依頼し、その紹介を受けて5月24日の第18回通常総会で新理事長に就任。しかしこの人事は県知事によるトップダウンだった事もあり、理事会やフロントは歓迎していなかった。
当時のクラブは金森の経営計画のずさんさから約1億3000万円という大幅な赤字を抱え、その補填策としてJ1昇格の為の準備金を取り崩さなければならなくなり、内外にその厳しい台所事情を露呈。またチーム成績も2年連続で下位に低迷していた。この様に就任時の状況は芳しいものではなかったが、そこから海保は手腕を発揮する。
引き継ぎが円滑に行かず、クラブ事情を把握するのに1年を要したが、2008年から本格的に改革を断行。経営基盤強化のため、後援会特典の無料入場を廃止し、さらに入場料を値上げした。また「イレブンミリオンプロジェクトグループ」を立ち上げ、サポーターや諸団体との懇談会「BMミーティング」を開いて入場者数増加やファンサービス向上の為の対策を練り、実行に移していった。これらの改革には前理事長時代からのフロント職員などが反対、抵抗するなど、「味方はサポーターだけ」という厳しい状況だったが、結果として入場者数、入場料収入を増加させ事業規模を倍にするなど成果を挙げた。

チーム強化では2007年10月にNEC山形サッカー部事務局員だった中井川茂敏をGMとしてクラブに復帰させ、チームにとってJ2参戦10年の区切りとなる2008年には大分トリニータをJ1に昇格させた実績のある小林伸二を監督に招聘。公益法人で成り立つチームの特色から運営資金は少なく、主力の多くをレンタル移籍に頼る形ながら小林の堅実な守備をベースとした戦術はチームにフィット。短期間で力を付けたチームは豊田陽平らの活躍もあり快進撃を見せる。この年J2を2位で終え、海保の就任から3年目でJ1昇格を果たした。

2009年、昇格に大きく貢献した豊田が移籍。実績のある古橋達弥や、一部のレンタル選手が完全移籍を果たすも戦力の見劣りは否めず、近年の昇格チームの不振もあり多くの専門家に降格を予想された。しかし、J1初戦のジュビロ磐田戦を6-2という大勝で飾ると、序盤8節で4勝、勝ち点14を獲得する。以降は苦戦を強いられたが、この年降格した3チームに4勝2分と要所で勝ち点を重ね、最終節を残して残留を確定させた。そして最終節、試合終了後の関係者挨拶の際に「戦前の予想は、ダントツの最下位!ざまあみやがれってんだ!」と叫んだ海保に、スタジアムから大きな拍手が巻き起こった。
翌2010年も降格候補に挙げられながら田代有三らの活躍で残留を果たした。なお、この年の3月をもって健康上の理由により勇退した。

脚注編集

  1. ^ モンテディオ山形ファンマガジン「Rush」2010年4月号 海保宣生理事長からのラストメッセージ
  2. ^ “J1山形元理事長・海保宣生氏、73歳で死去 東京五輪バスケ日本代表”. サンケイスポーツ. (2015年4月20日). http://www.sanspo.com/soccer/news/20150420/jle15042021260008-n1.html 2015年4月21日閲覧。 
  3. ^ “【訃報】海保宣生氏ご逝去のお知らせ”. モンテディオ山形. (2015年4月20日). http://www.montedioyamagata.jp/news/n-00004181/ 2015年4月21日閲覧。 

関連項目編集