海山太郎 (二所ノ関)

海山 太郎(かいざん たろう、1870年9月10日 - 1931年6月6日)は、土佐国土佐郡(現在の高知県高知市)出身で友綱部屋(入門は大坂相撲の猪名川部屋)所属の明治時代に活躍した元大相撲力士。本名は、笠井兎之助(かさい とのすけ、外之助とも)。身長173cm、体重99kg。怪力で知られ、得意手は、小手投げ、すくい投げ、合掌捻り[1]。最高位は関脇

人物編集

大坂相撲の猪名川部屋に入門し、鏡川の四股名を名乗る。その後1891年(明治23年)5月に東京の友綱部屋に移籍、序二段付出となる。1894年(明治26年)5月場所で新十両1895年(明治27年)1月場所で新入幕と順調に出世した。

1898年(明治30年)1月場所の新関脇で6勝1敗2預、翌5月場所も5勝2敗2預の好成績で大関を期待されるが、次の1899年(明治31年)1月場所は2勝5敗2分と大きく負け越して果たせなかった。常陸山に強く、常陸山がまだ横綱昇進前ではあったが2勝しており、最高位が関脇以下の力士ではただ1人常陸山から2勝している。大倉喜八郎の宴席で、外国人から日本の力士はどのくらい強いかと聞かれると、碁盤の上に一人座らせて、片手で持ち上げたという[2]

1910年(明治42年)1月場所を全休して現役引退、年寄二所ノ関を襲名し、友綱部屋から独立して二所ノ関部屋を興した。直弟子には第32代横綱玉錦などがいる。二所ノ関部屋は稽古土俵がなく共同の稽古場を使う小部屋だったので、弟子の中には出羽ノ海部屋などの大部屋の預かりとなって稽古をつけてもらう力士もいた。この頃、囲碁木谷實九段が二所ノ関部屋に居候して日本棋院へ通っていた[3]

1931年(昭和5年)夏場所、玉錦が大関に昇進する。玉錦は3連覇しながら横綱を見送られ、綱姿を見ることなく1931年(昭和6年)6月6日、胃癌で死去、二所ノ関部屋の弟子は粂川部屋に預けられた。その後、愛弟子の玉錦は昭和7年(1932年)10月場所に第32代横綱に昇進、昭和10年(1935年)に二枚鑑札を許されて二所ノ関部屋を再興した。

二所ノ関部屋の開祖であるためか「海山太郎」の四股名は二所ノ関部屋の出世名となり、後の二所ノ関部屋の力士(神風正一など)が襲名している。

脚注編集

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  1. ^ 石井代蔵『土俵の修羅』時事通信社「友綱再興に燃えた喧嘩玉錦」
  2. ^ 石井代蔵『土俵の修羅』時事通信社「友綱再興に燃えた喧嘩玉錦」
  3. ^ 石井代蔵『土俵の修羅』時事通信社「友綱再興に燃えた喧嘩玉錦」