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淵蓋蘇文

高句麗末期の武将・執政者

淵蓋蘇文(えん がいそぶん、生年不詳 - 665年宝蔵王24年))は、高句麗末期の宰相・将軍。泉蓋蘇文泉蓋金とも記される。

淵蓋蘇文
Yon Kaesomun
各種表記
ハングル 연개소문
漢字 淵蓋蘇文
発音 ヨン・ゲソムン
日本語読み: えん がいそぶん
ローマ字 Yeon Gaesomun
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目次

氏名の表記編集

日本書紀』には伊梨柯須彌(伊梨柯須弥、いりかすみ)として現れる。このことから、姓の「淵(泉)」は高句麗語の「いり(高句麗語で「水源」の意味と推察されている)」を漢字訳したもの、名の「蓋蘇文」は高句麗語で「かすみ」と発音したものを漢字で当て字したことがわかる。

姓は「淵」とも「泉」ともされる。『旧唐書』『三国史記』等が「泉」として「淵」とは書かないのは、もともと「淵」だったにかかわらず高祖(淵)を避諱して類似の意味をもつ文字で代用したのだ、という説もあるが、『日本書紀』に伊梨柯須彌とも書かれているように、漢字訳はもともと便宜的なものであり最初から「淵」と「泉」が並行して使われていた可能性もある。

経歴編集

642年栄留王25年)に北方に千里長城を築造し唐の侵入に備えた。その年のうちに唐との親善を図ろうとしていた第27代王・栄留王、および伊梨渠世斯(いりこせし)ほか180人の穏健派貴族たちを弑害し、宝蔵王を第28代王に擁立して自ら大莫離支(だいばくりし:高句麗末期の行政と軍事権を司った最高官職)に就任して政権を掌握する[1]。しかし安市城の城主だった楊萬春が淵蓋蘇文への権力集中を認めず抗議したことから、淵蓋蘇文は直接軍隊を率いて安市城を攻撃した。しかし、長期間の攻撃にもかかわらず安市城を占領することができなかったことから、結局2人は妥協するに至り、淵蓋蘇文は楊萬春の職権を、楊萬春は淵蓋蘇文を執政者として承認した。

この頃、高句麗は対外的に緊迫した情勢にあったが、淵蓋蘇文は対外強硬策を採り、高句麗に救援を要請するために到来した新羅の金春秋(後の武烈王)を監禁し、新羅と唐との交通路である党項城を占領した。

644年宝蔵王3年)、新羅との和解を勧告する唐の太宗の要求を拒否する。これに激怒した太宗が弑君虐民の罪を問い、645年(宝蔵王4年)に17万の大軍を率いて高句麗に侵入した(唐の高句麗出兵)。しかし、楊萬春が安市城でこれを阻止し、60余日間の防戦ののち唐軍を撃退した。なお、その後4回に亘って唐の侵入を受けたが、楊萬春はことごとくこれを阻んでいる。

一方、643年(宝蔵王2年)に唐へ使臣を派遣し、道教の道士8名と『道徳経』を高句麗に持ちこむなど、淵蓋蘇文は文化面でも功績を残した。

テレビドラマ編集

2006年7月から2007年6月にかけ、韓国SBSテレビは淵蓋蘇文を主人公とした大河史劇『淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)』を放送している。

脚注編集

  1. ^ 日本書紀皇極天皇元年条(642年):「秋九月。大臣伊梨柯須彌殺大王。并殺伊梨渠世斯等百八十餘人。仍以弟王子兒爲王。以己同姓都須流。金流。爲大臣。」[1]

参考文献編集

関連項目編集