清岡家
清岡家(きよおかけ)は、菅原氏五条家庶流にあたる公家・華族の家。公家としての家格は半家、華族としての家格は子爵家。
清岡家 | |
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種別 |
公家(半家) 華族(子爵) |
出身地 | 山城国 |
主な根拠地 |
山城国 京都府京都市伏見区 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
歴史
編集延宝5年(1677年)に権大納言五条為庸(1619年 - 1677年)の次男・清岡長時(1657年 - 1718年)が昇殿を許されたことにより新しい堂上家が創設され、清岡を家号とした[1]。
公家としての家格は半家[1]、新家[1]、外様[1]。江戸時代の家禄は蔵米30石3人扶持[1]。家業は儒学[2]。居所は西殿町下ル東側。菩提寺は浄福寺[1]。
歴代当主は概ね文章得業生よりはじまり、文章博士・大内記を経て大学頭、少納言、式部権大輔に任じられるのを家例とする[1]。
明治維新後の明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると清岡家も公家として華族に列した[3][4]。明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同8日に大納言直任の例がない旧堂上家[注釈 1]として9代長説が子爵に叙された[6]。
その孫の11代長言は大正天皇の侍従や貴族院の子爵議員に当選して務めた[7]。長言の代に清岡子爵家の住居は京都市伏見区桃山町松平筑前にあった[7]。少女ヌードの写真家として知られる清岡純子はこの長言の娘(三女)にあたる。
系譜
編集- 実線は実子、点線(縦)は養子。
五条為庸 | |||||||||||||||||||||||||||||
清岡長時1 | |||||||||||||||||||||||||||||
致長2 | 若江長統 | ||||||||||||||||||||||||||||
長香3[† 1] | |||||||||||||||||||||||||||||
貞長4 | 輝忠 | ||||||||||||||||||||||||||||
輝忠5 | |||||||||||||||||||||||||||||
長親5[† 2] | |||||||||||||||||||||||||||||
長貴6 | 長材7 | ||||||||||||||||||||||||||||
長熈8[† 3] | |||||||||||||||||||||||||||||
長説9 | |||||||||||||||||||||||||||||
長延10 | |||||||||||||||||||||||||||||
長言11 | |||||||||||||||||||||||||||||
長和12 | 純子 | ||||||||||||||||||||||||||||
卓13[† 4] | |||||||||||||||||||||||||||||
系譜注
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年6月。ISBN 4-8457-0930-9。
- 太田亮「清岡 キヨオカ」『姓氏家系大辞典』 2巻、磯部甲陽堂、1943年4月、1975頁。doi:10.11501/1875888 。
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年3月。ISBN 4-12-101836-2。
- 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年9月。ISBN 4-8205-4034-3。
- 橋本政宣『公家事典』吉川弘文館、2010年3月。ISBN 978-4-642-01442-7。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会 編『平成新修旧華族家系大成』 上巻、霞会館、1996年9月。ISBN 4-642-03670-9。
- 近藤敏喬 編『宮廷公家系図集覧』東京堂出版、1994年9月。ISBN 4-490-20243-1。
- 霞会館諸家資料調査委員会 編『昭和新修華族家系大成』 上巻、霞会館、1982年3月、488頁。doi:10.11501/12212642 。