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人物編集

1868年(慶応4年)、石川県金沢市に生まれる。

東京帝国大学法科を卒業。ドイツへ留学後、学習院教授となる。1905年明治38年)、法学博士号を取得する。次いで慶應義塾大学法学部教授(憲法行政法担当)。1926年大正15年)2月27日帝国学士院会員。

宮内省及び東宮御学問所御用掛となり、大正天皇昭和天皇に憲法学を進講した。行政裁判所長官、枢密院顧問官・副議長を経て、敗戦後、1946年昭和21年)6月13日最後の枢密院議長に任ぜられる。

枢密院が廃止され、公職追放となり[1]、 1947年(昭和22年)5月3日日本国憲法が施行された後の同年9月25日、日本国体の危機を憂い、熱海錦ヶ浦海岸から投身自殺を遂げた。

遺言に当たる「自決ノ辞」には、

新日本憲法ノ發布ニ先ダチ私擬憲法案ヲ公表シタル團體及個人アリタリ其中ニハ共和制ヲ採用スルコトヲ希望スルモノアリ或ハ戰爭責任者トシテ今上陛下ノ退位ヲ主唱スル人アリ我國ノ將來ヲ考ヘ憂慮ノ至リニ堪ヘズ併シ小生微力ニシテ之ガ對策ナシ依テ自決シ幽界ヨリ我國體ヲ護持シ今上陛下ノ御在位ヲ祈願セント欲ス之小生ノ自決スル所以ナリ而シテ自決ノ方法トシテ水死ヲ擇ビタルハ楚ノ名臣屈原ニ倣ヒタルナリ

元樞密院議長  八十翁 清水澄  法學博士  昭和二十二年五月 新憲法實施ノ日認ム

追言 小生昭和九年以後進講(宮内省御用係トシテ十數年一週ニ二回又ハ一回)シタルコト從テ龍顔ヲ拝シタルコト夥敷ヲ以テ陛下ノ平和愛好ノ御性質ヲ熟知セリ從テ戰爭ヲ御賛成ナカリシコト明ナリ

と記し、大日本帝国憲法に殉じ、自殺をすることと、その自殺が中国戦国時代国の屈原汨羅(べきら)の淵に投身自決した故事に倣ったことが記されている。

国家総動員法の審議が第73回帝国議会で行われた際、「この法案は憲法違反とはいえない」という考えを示した。原田熊雄からこのことを聞いた西園寺公望は「清水なんかに憲法が判るもんか」とコメントしている[2]

金沢市の石川護國神社には、「清水澄博士顕彰碑」がある。

栄典・授章・授賞編集

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

著書編集

  • 『国法学』(清水書店、明治37年-43年(1904年-1910年))
  • 『行政法各論』(早稲田大学出版部、明治43年(1910年))
  • 『帝国憲法大意』(清水書店、1912年)
  • 『帝国憲法の話』(実業之日本社、大正2年(1914年))
  • 『帝国公法大意』(清水書店、大正14年(1925年))
  • 『国体論』(教化団体聯合会、昭和2年(1927年))
  • 『日本行政法大意』(清水書店)
  • 『逐条帝国憲法講義』(松華堂書店、昭和7年(1932年))。平成27年(2015年)、呉PASS出版で復刻版
  • 『日本行政法』(松華堂書店、昭和10年(1935年))

脚注編集

  1. ^ 公職追放の該当事項は「枢密院副議長」。(総理庁官房監査課編 『公職追放に関する覚書該当者名簿』 日比谷政経会、1949年、569頁。NDLJP:1276156 
  2. ^ 岡義武 『近代日本の政治家』 岩波現代文庫 ISBN 978-4006030421、300-301p
  3. ^ 『官報』第7640号「叙任及辞令」1908年12月12日。
  4. ^ a b c 清水顧問官定例叙勲』 アジア歴史資料センター Ref.A06051021600 
  5. ^ 『官報』第3046号「叙任及辞令」1937年3月2日。
  6. ^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
  7. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  8. ^ 『官報』第144号「叙任及辞令」1913年1月24日。

参考文献編集

関連項目編集

外部リンク編集


公職
先代:
窪田静太郎
  行政裁判所長官
第8代:1932 - 1934
次代:
二上兵治
先代:
鈴木貫太郎
  枢密院副議長
第15代:1944 - 1946
次代:
潮恵之輔
先代:
鈴木貫太郎
  枢密院議長
第23代:1946 - 1947
次代:
廃止