清水 郁子(しみず いくこ、1892年10月2日 - 1964年6月24日)は、教育学者教育評論家桜美林学園初代学園長。旧姓小泉。

来歴 編集

1892年10月、島根県松江市に生まれる。小学生時に教会へ通いキリスト教と出会った。地元の中学校卒業後は上京し東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)へ進学、1915年の卒業と同時にキリスト教の洗礼を受ける。

その後は教員となり兵庫長崎で教鞭を執った後、東京帝国大学文学部(当時)の聴講生となり、在学中に日本救世軍士官だった山室軍平の講義を聞いたことでその思想に深く感銘を受けアメリカに留学、現地でサンノゼ救世軍士官学校を卒業、次いでオベリン大学神学を学び、1924年同大学にて宗教教育学学士。この際、同じく日本から留学に来ていた清水安三と出会う。

1928年ハワイで開かれた桜蔭会(東京女子師範同窓会)代表として汎太平洋婦人会議(団長・井上秀)に出席[1]。同年ミシガン大学大学院にて教育学修士取得後、博士論文の資料収集のために1930年日本に帰国、青山学院女子専門部(当時)教頭兼教授となった。1936年、先の留学で出会い、時を同じくして帰国していた清水安三と結婚、間もなくして安三に連れ添い中国へと渡り、当時安三が経営していた崇貞学園の経営を手伝う傍ら、教師の経験を活かし自らも教鞭を執る。1936年には婦人公論の依頼で宋美齢を訪問[1]。1945年8月、日本の太平洋戦争敗戦により崇貞学園は接収され、日本へ強制帰国となる。

帰国後の1946年、安三は崇貞学園のような学校を日本で作りたいと思っていた最中、偶然知り合った賀川豊彦町田の造兵工場跡を紹介され桜美林学園を創立、郁子が初代の学園長となった。創立間もない頃は自ら桜美林学園にて教鞭を執ることもあったという。1964年6月24日、71歳で逝去。

業績 編集

清水はアメリカ留学時代に『児童の世紀』(エレン・ケイ著)を読んだことがきっかけでその教育思想に強く影響を受けたとされ、教育学者として1931年、日本で最初に本格的な男女共学論を唱え、それを基に自ら『男女共学論』を著して女性の権利向上を広く社会に訴える等していたと言われており、学問としての男女共学論の創始者とされる。当時、アメリカでは既に男女共学が広がり始めていたが、日本国内では女子教育の充実が重視され、現在の女子校に相当する物が相次いで設立された1920年~30年代の日本において清水のように男女共学論を唱える者は極めて少なかったと言われる。

一方で教育学者として安三の学校運営にも携わっており、開業当時は女学校だった桜美林を自らが学園長になるとその思想に基づきいち早く男女共学とした。当時は高校しかなかった桜美林学園は後に幼稚園の他、中学校、大学が次々と開学したが、当初、安三が女子大学として開学する構想を描いていた桜美林大学を最終的に男女共学としたのも、郁子の男女共学論に基づいたものであるとされる。その実績を買われ、当時のGHQより教育部の顧問を打診されたが、桜美林学園の運営のために固辞した。

清水の母校であるお茶の水女子大学は2016年、「彼女の遺志が若い世代に受け継がれることを願い、人文社会科学の諸分野において顕著な業績を挙げた女性を顕彰する事」を目的として、学内表彰の1つに小泉郁子賞を創設した。

著書 編集

  • 『男女共学論』拓人社 1932
  • 『女性は動く』南光社 1936

脚注 編集

  1. ^ a b 『朝陽門外』清水安三、桜美林大学出版会、2021、p28-31

外部リンク 編集