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清泰院(せいたいいん、元亀3年(1572年[1] - 慶長9年閏8月1日1604年9月24日) )は、毛利輝元側室毛利氏家臣児玉元良の娘。名は周姫(かねひめ)[2]広島城二の丸に住んだために「二の丸殿」と呼ばれる。初め、杉元宣の妻。初代長州藩毛利秀就、初代徳山藩毛利就隆吉川広正室の竹姫の生母。法名は清泰院殿栄誉周慶大姉(院号は快楽院とも[3])。

経歴編集

「古老物語」によると、幼少の周姫(後の二の丸殿)が自宅門前で遊んでいたところ、美少女故に通りがかった輝元の目に留まり、その後、輝元はしばしば元良の広島時代の自宅を訪問するようになる。輝元のこの行動を快く思わない元良は、天正12年(1584年)に13歳の周姫を杉元宣に嫁がせた。しかし、輝元は諦めることなく佐世元嘉らに命令し、強奪して側室とした。これに立腹した元宣は、天正17年(1589年)の大坂豊臣秀吉への直訴を計画するが、事の重大さに気付いた小早川隆景により野上庄沖にある大島の船隠で殺害された。

不本意ながらも輝元の側室となった周姫は、広島城二の丸に住み「二の丸殿」として輝元の寵愛を受ける。なお、二の丸殿が未完成の広島城に早々に居住することとなったのは、輝元正室である南の方の嫉妬によるものとされる[4]。その後、文禄4年10月18日1595年11月19日)に毛利秀就、慶長4年(1599年)に竹姫、慶長7年9月3日1602年10月17日)に就隆を出産。通説では秀就を広島城で生んだとされるが、南の方を恐れていたことから、懐妊後に密かに長門国の小野村(現・山口県宇部市)の財満就久の屋敷に匿われ、密かに出産したとの説もある(詳細は毛利秀就を参照)[4]

毛利家の転封により広島城に戻ることができなくなると、萩城に入らずに周防国山口の覚皇寺に移った。慶長9年(1604年)8月1日に32歳で病死し、山口古熊の西方寺(現・山口市の善生寺)に葬られた[5]。萩に入ることができなかったのは、前述の通り正室である南の方が許さなかったと言われている[4]

明治になって、山口市の香山公園(瑠璃光寺)にある毛利家菩提所の裏に墓が移された。

姫山伝説編集

山口には「姫山伝説」なるものが伝えられる。伝説の内容にはバリエーション[6]が多いものの、概ね次のようなものであり、二の丸殿との関連が推測される話となっている[4][7][8]

  • 山口の城下町には大変美しい長者の娘がいたが、それを見初めた殿様が側に置こうとした。婚約者のいる娘はそれを拒むが、断りに行った長者(父)は帰って来なかった。怒りの収まらない殿様は、頑なに拒む娘を捕らえて姫山の古井戸に吊すと、蛇を投げ込んで娘を苦しめる。娘が死ぬ間際に「美しく生まれために私は不幸になった。後世の女の人が同じように苦しみまないよう、この山から見渡す土地には美人を生まれさせない」と呪ったため、山口には美女が生まれなくなった。

参考文献編集

  • 萩市史編集委員会編 『萩市史』第1巻、1983年。 

脚注編集

  1. ^ 錦帯橋-上巻-輝元と周姫 二 中野グラニット
  2. ^ 錦帯橋-上巻-輝元と周姫 一 中野グラニット
  3. ^ 小川宣『周南風土記』文芸社、2006年 40頁
  4. ^ a b c d 山口県宇部市にある財満屋敷跡の説明板「二の丸様の顕彰碑」(二の丸様顕彰会)
  5. ^ 善生寺庭園 - 山口県の文化財(山口県教育庁社会教育・文化財課)
  6. ^ 姫山伝説 - 大内文化まちづくり(山口市文化政策課)
  7. ^ 姫山伝説を描く - 大内文化まちづくり(山口市文化政策課)
  8. ^ 山口)「山口に美人は生まれぬ」姫山伝説とは? - 朝日新聞デジタル(2014年9月9日)