済 火(さい か、生没年不詳)は、中国三国時代益州牂牁郡の黒盧鹿(現在のイ族の一種)の族長。羅甸国王。名前は火済[1]済済火[2]妥阿哲とも[3]

三国志』や『後漢書』など当時の記録にはないが、後年の『明史[4]の他『貴州通志』などの地方志にその名がみえる。

生涯 編集

済火は漢代の牂牁郡における黒盧鹿[5]の酋長で、水西安氏の遠祖にあたる。部族はみな身長が高く、顔は彫が深く色黒で、歯は白く鉤鼻、口髭は剃り、頬ひげをまとめた。別名に烏蛮、または鬼を尊ぶところから羅鬼と呼ばれた。済火も同様で、鬼のような顔に[6]、青布で髪を包み角状にまとめた[7]。また戦闘に習熟し、信義を重んじて民衆を良くまとめたため、諸蛮から長に推戴される[8]

建興元年(223年)に牂牁太守・朱褒雍闓が反乱を起こした為、225年諸葛亮が南征を開始した。済火は李恢越嶲郡に入ると部族を率いて助力し、山を切り開き兵糧を供給した[9]。あるいは兵糧を届け、諸葛亮を助けて先鋒となり、孟獲の捕縛に協力した[10]。翌226年、功績により羅甸国王に封じられる[11]。その治世は長く、普里の諸部族を攻めて領地を増やし、銀装の鳩杖を下賜された(高齢者に贈られる杖)。その後裔には、唐代に阿珮、宋代に普貴、元代に阿畫がおり、歴代王朝に臣従し爵位を継承して、水西に住み「大鬼主」と号した[12]

後年、明の万暦帝期(1572年-1620年)、貴州省貴陽府に諸葛亮を祭る武侯祠が建てられ、1689年康熙28年)に巡撫の田雯[13]が補修した。その際、諸葛亮像に脇侍する済火の像が造られた[14]

彝族の習俗歴史を記した『西南彝志』によれば、建興の頃の部族長の名は「妥阿哲」であり、諸葛亮を助けるなど済火とほぼ同じ事績が記される。また1981年に貴州省畢節市大方県の城西から「妥阿哲紀功碑」が出土した。

脚注 編集

  1. ^ 『康熙字典』《火部》《明紀事本末》火濟,從諸葛亮南征孟獲有功,封羅甸國王。
  2. ^ 『貴州通志』 巻20 名宦分部 大定府 「濟濟火牂牁帥善撫其衆聞諸葛武侯南征積糧通道以迎師遂佐武侯平西南夷擒孟獲封羅甸國王已乃攻普里諸種拓其境土即安氏逺祖也」
  3. ^ 『黔書』済火の項の注釈に「火済見史書茲云済火葢従土語」とあり、以下「済火」表記で統一する。
  4. ^ 『明史』貴陽府「自蜀漢時,濟火從諸葛亮南征有功,封羅甸國王。」
  5. ^ 『貴州通志』 巻7 苖蛮 大定県の盧鹿族は白黒二種おり、黒が大姓。
  6. ^ 『黔書』深目長身魑面白齒
  7. ^ イ族の民族衣装として、現代にも同様の帽子が伝わる。
  8. ^ 『貴州通志』巻37 藝文 濟火論
  9. ^ 『貴州通志』巻42 藝文 記三 重修武鄉侯祠碑記
  10. ^ 『貴州通志』巻19 名宦 諸葛亮
  11. ^ 薛載德『貴州通志』巻5。羅甸の位置は不明だが、『明史』貴陽府に済火の記述がある(後漢では牂牁郡の治所の故且蘭縣あたり)
  12. ^ 『欽定古今圖書集成』方輿彙編職方典 貴陽府峒蠻考
  13. ^ 田雯は清の官吏、詩人で苗族など少数民族の習俗を調べ『黔書』などに編纂した。『貴州通志』にも多く記述が残る。
  14. ^ 『欽定古今圖書集成』方輿彙編職方典 貴陽府祠廟考 武侯祠