渋江保

渋江 保(しぶえ たもつ、1857年9月14日安政4年7月26日) - 1930年4月7日)は、日本翻訳家著作家[1][2]

経歴編集

渋江抽斎の子(三男とも[1]、七男ともいう[2][3])として、江戸に生まれた[1][3]。本名は、成善(しげよし)[1]1868年には父の本国である弘前藩に移り、若年のうちから漢学者として身を立てた[2][4]

1871年に再び上京して共立学舎英語を学び、1年後には英語からの編訳書『米国史』を出版した[4]1872年、師範学校(後の東京高等師範学校)の1期生となり、1875年に卒業して、小学校教員の養成を目的として浜松に新設された[5]瞬養校に教師として赴任したが、1879年に帰京して慶応義塾に学んだ[4]1881年から[4]1882年ころには愛知県で中学校の校長をしていたが、程なくしてまた東京に戻り、慶応義塾や攻玉社で教鞭を執ったり、『東京横浜毎日新聞』記者となったりした[4]。しかし健康を害して、1885年には静岡県周智郡に隠棲した[4]。しかし翌1886年には静岡で教職に戻り、また『東海暁鐘新報』(『暁鐘新聞』とも)の主筆を経て、1890年には東京へ戻って博文館に入り、1905年まで勤務した[3]。博文館時代の1890年ころから1901年にかけて[2]、様々な分野の書籍の翻訳や執筆にあたった[1][3]

博文館退社後は、大学館などかた羽化仙史渋江不鳴など複数の筆名を使い分けて、怪奇小説、冒険小説の類を多数書き、さらに、宇宙霊気、動物磁気、心霊学、催眠術など、疑似科学的な主題の著作も著した[1][3]

晩年については、資料が少ないが、1917年に『スコブル』に掲載された記事によると、株式取引で大きな損失を出して落ちぶれ、牛込にあった自宅で英語を教えて暮らしており、山路愛山が多少の支援をしていたという[3]。さらに最晩年には易学の研究に打ち込み、神誠館上村売剣と交流が深かったという[4]

渋江保の著作は膨大な量にのぼるが、その全体像にについては、藤元直樹による詳細な書誌学的検討が行われている[4]

脚注編集

  1. ^ a b c d e f デジタル版 日本人名大辞典+Plus『渋江保』 - コトバンク
  2. ^ a b c d 山本勉「明治時代の著述者 渋江保の著述活動:出版物「万国戦史」を中心に」、『佛教大学大学院紀要 文学研究科篇』第43号、佛教大学、2015年3月1日、 91-108頁。 NAID 110009890237
  3. ^ a b c d e f 横田順彌 「渋江保」『20世紀ニッポン異能・偉才100人』 朝日新聞社、1993年11月5日、152-153頁。
  4. ^ a b c d e f g h 藤元直樹渋江抽斎没後の渋江家と帝国図書館 (PDF) 」 、『参考書誌研究』第60号、国立国会図書館、2004年3月30日、 63-119頁、2016年5月25日閲覧。
  5. ^ 和久田雅之. “浜松文学紀行 井上靖と浜松 2 浜松中学校入学、ダブダブの帽子と靴” (PDF). 浜松文芸館だより いざない (公益財団法人 浜松市文化振興財団/浜松文芸館) (25): p. 2. https://www.hcf.or.jp/pdf/facilities/bungei/izanai25.pdf 2016年5月25日閲覧。