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経歴編集

山口県吉敷郡下宇野令村(現・山口市)生まれ[4]。旧姓は蔵田。1900年7月、東京帝国大学文科大学国史科卒[3][5]。埼玉県立熊谷中学校勤務の後[4][6]1903年に「関東ヲ中心トシタル足利時代史」の研究のため、東京帝国大学大学院に進学する[3][7]1904年から東京帝国大学史料編纂掛(史料編纂所)に勤務[4]1905年からは東京帝国大学文学部講師として室町時代戦国時代の歴史を講義する[4]1910年からは國學院大學でも教鞭を取る[4]1915年史料編纂官[3][8]1932年明治大学教授兼任となる。1936年に史料編纂所を退官[9]後は1939年まで嘱託として身を置いた。1949年から1954年まで明治大学文学部長を務めた他、國學院大學史学会長・文部省史料館評議員・地方史研究協議会第2代会長などの職も務めた[4]

1957年、心臓伝達障害のため死去[10]

人物編集

家族・親族編集

渡辺家編集

山口県東京市小石川区林町[3]
1881年[3] - 没

親戚編集

著書編集

  • 稿本石田三成 1907 のち雄山閣
  • 武蔵武士 八代国治共著 博文館 1913
  • 安土桃山時代史 早稲田大学大版部 1916
  • 豊太閤と其家族 日本学術普及会 1919
  • 室町時代史 日本時代史第7巻 早稲田大学出版部 1926
  • 安土桃山時代史 日本時代史第8巻 早稲田大学出版部 1926
  • 足利時代之研究 関東中心 雄山閣 1926 のち新人物往来社より復刊
  • 蜂須賀小六正勝 雄山閣 1929
    • 明治時代の蜂須賀家の当主茂韶が宮中に参内して応接室で待たされたとき、ふと卓上にあった煙草を一本失敬したところ、やってこられた明治天皇がそれに気づかれ、笑いながら「蜂須賀、先祖は争えんのう」と言われたという逸話があり、このことを気にした蜂須賀侯爵家が渡辺に依頼した。海音寺潮五郎はこのことについて「当時の武家で強盗ばたらきをしていた者は珍しくなかった。渡辺博士ほどの学者が気づかないはずはないのだが、蜂須賀家の依頼もだしがたく、そこを無視したものに違いない」と述べている(「列藩騒動録」講談社文庫)。
  • 史籍の選択法 雄山閣 1938
  • 小早川隆景 川上多助共著 三教書院 1939
  • 豊太閤の私的生活 創元社 1939 のち「秀吉の生涯」新人物往来社 原題で講談社学術文庫
  • 武田信玄の経綸と修養 創元社 1943 のち新人物往来社より復刊
  • 日本中世史の研究 六盟館 1946
  • 社会経済史学 18(3) 信濃高島藩金沢村小松三郎左衛門磔殺事件・地方史研究社会経済史学 社会経済史学会 1952
  • 諏訪史第3巻 諏訪教育会 1954
  • 国史論叢 文雅堂書店 1956
  • 正史赤穂義士 光和堂 1965

出典編集