渡辺美智雄

日本の政治家

渡辺 美智雄[2](わたなべ みちお、1923年〈大正12年〉7月28日 - 1995年〈平成7年〉9月15日)は、日本政治家。元衆議院議員(11期)。千葉県習志野市生まれ、栃木県那須郡川西町黒羽町を経て2005年以降大田原市)育ち。

渡辺 美智雄
わたなべ みちお
1993年3月
生年月日 1923年7月28日
出生地 日本の旗 日本千葉県習志野市
没年月日 (1995-09-15) 1995年9月15日(72歳没)
死没地 日本の旗 日本東京都新宿区東京女子医科大学病院[1]
出身校 東京商科大学附属商学専門部
前職 読売新聞東京本社記者
所属政党自由党→)
自由民主党
称号 従二位
勲一等旭日桐花大綬章
衆議院永年在職議員
配偶者 長山すみ子
親族 長男・渡辺喜美
孫・渡辺美知太郎

内閣 宮沢内閣
宮沢改造内閣
在任期間 1991年11月5日 - 1993年4月7日

内閣 第2次中曽根第2次改造内閣
在任期間 1985年12月28日 - 1986年7月22日

日本の旗 第85代 大蔵大臣
内閣 鈴木善幸内閣
鈴木善幸改造内閣
在任期間 1980年7月17日 - 1982年11月27日

内閣 第1次大平内閣
在任期間 1978年12月7日 - 1979年11月9日

日本の旗 第54代 厚生大臣
内閣 福田赳夫内閣
在任期間 1976年12月24日 - 1977年11月28日

その他の職歴
日本の旗 衆議院議員
旧栃木1区
当選回数 11回
1963年11月22日 - 1995年9月15日
第33代 自由民主党政務調査会長
(総裁: 竹下登
1987年 - 1989年
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自由民主党政務調査会長(第33代)。厚生大臣(第55代)、農林水産大臣(第2代)、大蔵大臣(第81代)、通商産業大臣(第45代)、副総理外務大臣(第114代)を歴任。中曽根派を継承して渡辺派を率いた。従二位勲一等旭日桐花大綬章[3]。「ミッチー」の愛称で親しまれた。

長男は、元参議院議員、元衆議院議員、第7・8代内閣府特命担当大臣(金融担当)、第7代内閣府特命担当大臣(規制改革担当)、初代みんなの党代表の渡辺喜美。長女は2017年の第48回衆議院議員総選挙希望の党から公認を受けて立候補したが[4]、落選[5]。孫は、元参議院議員、栃木県那須塩原市長の渡辺美知太郎[6]

来歴・人物 編集

1923年7月千葉県習志野市にて職業軍人の渡辺喜助、母マツの間に生まれた。川西町寒井小学校、旧制大田原中学校(現・栃木県立大田原高等学校)を卒業、陸軍士官学校を受験するが果たせず、1942年東京商科大学附属商学専門部 (高等商業学校に相当する課程)に入学。翌年秋に学徒出陣のため繰り上げ卒業し、出陣。復員後の渡辺は、進駐軍相手の通訳、讀賣新聞記者、行商の会社「マルムツ」の設立や税理士事務所開設を経て、1955年2月に自由党公認で栃木県議会議員選挙に立候補し当選。行商生活の1952年、後に衆議院議員みんなの党代表を務める長男喜美が誕生している。

何とか2回目の県議会議員選挙を当選した直後の1960年、突如として県議を辞職し、藤山愛一郎派の支援を受け、第29回衆議院議員総選挙旧栃木1区から保守系無所属で立候補するが、次々点で落選。その後河野一郎の下に身を寄せる。1963年11月第30回衆議院議員総選挙自由民主党公認で立候補し、初当選(当選同期に小渕恵三橋本龍太郎小宮山重四郎伊東正義田中六助佐藤孝行藤尾正行三原朝雄鯨岡兵輔西岡武夫奥野誠亮など)。1965年に河野一郎が急死し、河野派(春秋会)で後継者争いが起こると、当時1年生議員だった渡辺は中曽根康弘への派閥継承を主張。翌年、河野派は重政誠之森清派と中曽根派に分裂し、渡辺は中曽根派に所属した。

第3次佐藤内閣農林政務次官を経験するなど農林族議員として頭角を現し、「ベトコン議員」が多く参集する「米価問題懇談会」では斬り込み隊長となって、同期の中川一郎湊徹郎と共に「(イッチャン、ミッチャン、テッチャンの)3チャン艦隊」と呼ばれた。米価引き上げに頼らない農政改革を主張する、いわゆる「総合農政派」として知られた。1973年には田中角栄内閣日中国交正常化や金権政治に反対する親台派の保守系若手議員によって結成された青嵐会に参加し、渡辺は中川、湊らと共に代表世話人となった。

1974年税理士という立場もあり、大蔵小委員会において飯塚事件に関する質問を行い、国税庁の権力乱用を追及する。この国会質問が契機となり国税庁が自らの過ちを認め、事件の幕が引かれることになる。

1976年福田赳夫内閣厚生大臣として初入閣。日本医師会武見太郎会長との間で健康保険法改正・医療費値上げ・医師優遇課税をめぐり激しく争い、天皇とも呼ばれた武見に敢然として戦いを挑んだ。

第1次大平内閣農林水産大臣として再入閣。大平正芳と渡辺は同じ東京商大の同窓と言うこともあり、如水会人脈を通じて深い結びつきを持つようになっていった。衆議院総選挙敗北の責任をめぐり大平と福田赳夫の間にいわゆる「四十日抗争」が起きた際、渡辺は総裁予備選挙で一般党員が選出した大平総裁を引きずり下ろすのは大義名分が無いとして反大平を標榜していた中曽根派から離反する形で首班指名で大平に投票した。

中曽根派から離脱した渡辺は、派閥横断の政策集団「温知会」を結成し、党内、特に中曽根派の若手議員を取り込むと共に、全国で新人議員の発掘・育成を始める。その一方で中曽根別働隊としても活動し、大平首相の急逝を受けた総裁選びでは、田中角栄を訪ねて中曽根のために動いた。大平内閣を引き継いだ鈴木善幸内閣では大蔵大臣に就任し、財政再建に取り組んだ。1983年の総選挙後、中曽根派に復帰。第2次中曽根第2次改造内閣通産大臣1987年には自民党政調会長に就任。税理士経験からミクロ経済に強く、自民党有数の経済通として知られるようになった。中曽根後の派後継者と目された渡辺は「渡」として「ニューリーダー」の一角に数えられた。

ポスト竹下を目指し、幹事長の安倍晋太郎を脅かす存在感を発揮したが、リクルート事件に関与していた事が発覚、他の実力者とともに逼塞を余儀なくされ、竹下首相退陣後は、同じ中曽根派の幹部であり、日頃から反渡辺を公言していた宇野宗佑に首相の座を奪われる。

 
塩原温泉郷にある渡辺美智雄の胸像。1989年10月建立。

1990年の総選挙直後に中曽根派会長の櫻内義雄から派閥禅譲を受け同派会長に就任し、同派を「渡辺派」とする。しかし、前述の四十日抗争時に中曽根派を離脱(1982年の中曽根政権発足後に同派に復帰)し、またリクルート事件にも関与した渡辺への世間の風当たりは強く、また派閥オーナーである中曽根の意見を取り入れた派閥運営を余儀なくされた。1991年自民党総裁選に初出馬し次点に終わるも、直後発足した宮沢内閣副総理外務大臣に就任。しかし激務が重なった上、同年には膵臓癌の手術を受け、この頃から病気がちとなり入退院を繰り返すようになる。翌年12月の宮沢改造内閣でも留任したが、1993年4月に辞任。同年7月の総選挙で野党に転落した自民党の総裁選に再度出馬するが、健康不安などもあって河野洋平に敗れた。

1994年4月、細川内閣退陣の際、新生党小沢一郎より自民党からの離党を条件に首相就任を打診される。離党を示唆するなど、一時は本気でその姿勢を見せるが、同調者が中山正暉伊吹文明武部勤柿澤弘治ら10数名に留まり(渡辺側近の柿澤弘治、太田誠一新井将敬佐藤静雄山本拓米田建三の6人が渡辺に先立って実際に離党した)、河野総裁の慰留を受け入れる形で離党を断念。さらに、村山富市への首班指名選挙でも「社会党の委員長を首相なんかに推せるか」と派閥オーナーの中曽根と共に造反し、連立政権の統一候補となった海部俊樹に投票した。これらの造反行為により派閥内部における渡辺の求心力は著しく低下し、派閥幹部の江藤隆美は「小沢の誘いに乗るとは何事か」と中曽根・渡辺を公然と批判するなど、渡辺派の結束もゆるんでいった。こうした渡辺の言動の裏には、年齢・体力面でももう時間がなく、自分より10歳以上若い河野に差をあけられていることへの焦りがあったと言われている。

河野総裁の不出馬を受けた1995年の自民党総裁選では自身と同じ衆院選当選同期の橋本龍太郎を支持した。総理への道をあきらめきれないまま、1995年9月15日、東京都新宿区東京女子医科大学病院心不全のため死去した、72歳没[1]追悼演説は同じ選挙区で渡辺としのぎを削った新進党船田元が行い、船田は「一度は渡辺先生に総理大臣をやらせたかったと思う国民は決して少なくなかった」「同じ選挙区で戦ってきた私が胸をかりるようなつもりでいた」としのんだ[7]。渡辺の死後、秘書を務めていた息子の喜美が地盤を引き継いだ。

墓所は栃木県大田原市光真寺にある[8]

問題となった発言 編集

歯に衣を着せない言動で知られた[9]。渡辺の言動は「ミッチー節」と呼ばれ、いわれる栃木弁丸出しの歯に衣着せぬ話術でマスコミに積極的に登場しお茶の間の人気を得た。一方で、度々舌禍事件を起こした。

  • 高福祉・低負担ともとれる当時の野党の政策論への支持を「毛針にかかるようなもの」と揶揄した
  • 中華人民共和国は政治が悪いから、穴を掘って住んでいる人がいる」と述べた(窰洞(ヤオトン)を指すとみられる)

といったものが知られるが、以下の一件は時の総理大臣への抗議とその釈明書が出る事態となった。

アメリカ人の経済観念に関する発言 編集

1988年7月に開催された、自由民主党軽井沢セミナーの講演においてアメリカ人の経済観念に触れ、「日本人破産というと、夜逃げとか一家心中とか、重大と考えるが、クレジットカードが盛んなむこうの連中は黒人だとかいっぱいいて、『うちはもう破産だ。明日から何も払わなくていい』それだけなんだ。ケロケロケロ、アッケラカーのカーだよ」と述べた[10]

朝日新聞では、この報道は小さな囲み記事で「事務局をハラハラさせた」と記述があり、渡辺自身もその直後に「こういうとまた(マスコミに)捕まるか…」と自虐的に話していたと触れられており、重大なものとは受け止められていなかった。報道翌日の7月25日に渡辺は国会議事堂で「人種差別の意図は全くなかったが、誤解を与える不用意な発言があった。米国民の感情を傷つけていたとすれば遺憾であり、おわびし、陳謝する」と述べた[11]

しかし、駐日アメリカ合衆国大使館のスポークスマンは26日に「米国人をさげすむような発言は遺憾」と評し(渡辺から大使館に陳謝があったとも述べた)[12]、これがアメリカ合衆国で伝えられると在アメリカ合衆国日本国大使館に50件の抗議が寄せられた[13]

8月2日には、アメリカ合衆国の黒人議員協会や全米黒人実業家協会の関係者がアメリカ合衆国議会で会見し、中曽根康弘前首相の発言(知的水準発言)に続けて(また、中曽根発言のあと日本から陳謝や善処の約束があったにもかかわらず)この出来事が起きたことで、日本の差別観念が変わっておらず、むしろ悪化しているとして、首相の竹下登への抗議文を発表した[14][15][16]。竹下は8月13日に、黒人議員協会に釈明の文書を送ることとなった[17]

エピソード 編集

芸能界との関係 編集

  • 桂小金治をはじめ、芸能人芸能界関係者と交友があり、テレビのバラエティ番組やトーク番組にも出演した。1990年7月19日にはフジテレビ系バラエティ番組「森田一義アワー笑っていいとも」のトークコーナー「テレフォンショッキング」に生出演。「お友達」(同コーナーの次回の出演者)として桂小金治を紹介している。
  • 1988年3月15日夜、当時自民党政調会長だった渡辺は、帝国ホテルの孔雀の間で開催された「林家こぶ平(当時)真打昇進披露パーティー」に出席。約650人の客を前にスピーチし、こぶ平の母海老名香葉子を絶賛した。渡辺は1985年に海老名と西舘好子(当時は井上ひさし夫人)の三人で出演したテレビ番組「いい人・E話」(テレビ東京系)の中で、海老名が夫の林家三平(当時既に故人)を賞賛していたエピソードを披露。「この奥さんにして立派なご主人」と海老名を評した。渡辺は続けて西舘について「ある有名な劇作家(井上)の奥さんはテレビ番組で話した時に、やはり旦那のことを天才だとか言って褒めちぎっていたが、こんな女房では旦那は大変だと思った。そうしたら後に離婚してしまった。あの対談のときすでに別の男を作っていたようだ」と発言した。渡辺は笑いを取ったつもりであったが、実はその西舘もパーティーに出席していたため、西舘は激怒してその場で渡辺に詰め寄った。パーティーは混乱におちいり、渡辺は這う這うの体で会場を後にした。この一件の顛末は翌日以降のワイドショー女性週刊誌等で大々的に取り上げられ、西舘が渡辺を告訴する構えを見せるなどの騒動となった。しかし渡辺が西舘に電話をかけて「前に会って話した際、あなたに悪い印象をもってしまったが、離婚の話を揶揄するべきではないと娘に叱られてしまったよ」と言って謝罪の意を表したため、これを西舘も了承した。なお、渡辺の娘も離婚している。

野菜スープ健康法 編集

1993年から1994年にかけて民間療法として「野菜スープ健康法」がブームとなり、当時既に体調がすぐれなかった渡辺もこれを実践。同健康法の提唱者立石和の著書『「元祖」野菜スープ強健法 ガン細胞も3日で消えた!? 』(徳間書店 1994年3月 ISBN 4198600856)に評論家草柳大蔵・漫画家赤塚不二夫・プロ野球監督星野仙一夫人星野扶沙子らとともに登場し、「効果があった」「体調がよくなった」と語った。ところが1994年6月16日、立石和が医師の免許を持たずに診療行為を行い、また許可なく医薬品を販売したとして、医師法違反(無免許医業)と薬事法違反(無許可薬品販売)の疑いで逮捕されるという事件が発生した。立石は渡辺・草柳らを勝手に広告塔にし違法行為を行なっていたことが明らかとなった。立石の「野菜スープ健康法」はテレビ番組でも取り上げられていたほか、立石の著書も18万5千部を超える売上があり影響が大きく、被害者も全国に広がり、数千人に及んだ。立石が考案した野菜スープ自体は健康にマイナスの影響はなく、健康被害はなかったが、立石が宣伝していた「リウマチに効く」「末期ガンが治る」等の薬効は全く根拠のないものであった。

渡辺も被害者となったわけであるが、「国会議員が怪しげな人物に関わるとは軽率」との批判も受けた。しかし翌年渡辺は死去。ブームに踊らされ、根拠のない民間療法にすがるという大物政治家らしからぬ行動もまた、渡辺の焦りの表れだったのではないかと言われた。

語録 編集

上記で述べられているもの以外

著書 編集

単著 編集

  • 『国会議員70歳定年制論』渡辺美智雄後援会、1976年6月。全国書誌番号:90054860 
  • 『知らなかった患者学 こんなに差がつく医療制度の利用法 歯の治療費から入院費まで』主婦と生活社〈21世紀ブックス〉、1978年12月10日。 NCID BA42668362全国書誌番号:79003076NDLJP:12137673 
  • 『財政再建と経済政策』内外情勢調査会〈講演シリーズ 397〉、1980年11月。全国書誌番号:99030279 
  • テレビ東京編 編『いい人・E話』青山会出版局、1986年7月。全国書誌番号:20741399 
  • 『相続税制改革の視点 地価の高騰と相続税負担のあり方』ぎょうせい、1987年11月。ISBN 9784324010242NCID BN02148733全国書誌番号:88014722 
  • 『ミッチー大いに吠える 渡辺美智雄発言集』アイペックプレス〈News package chase 76〉、1991年9月。ISBN 9784870471825NCID BN10639683全国書誌番号:92006179 
  • 『政治雑感 日本の政治を憂える 統一テーマ「いま日本の政治を考える」』如水会〈一橋フォーラム21 第24期 10〉、1994年2月。全国書誌番号:97024467 
  • 『ミッチー語録』渡辺喜美監修、田商ピーアール、2007年9月。 NCID BC07418124全国書誌番号: 

共著 編集

編纂責任 編集

演じた俳優 編集

元秘書 編集

脚注 編集

  1. ^ a b 史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2020年1月15日閲覧。
  2. ^ 参議院会議録情報 第123回国会 外務委員会 第2号”. 参議院. 2018年10月14日閲覧。
  3. ^ 栄典に関する資料集 内閣府 桐花大綬章受章者一覧(戦後) 2017年10月閲覧
  4. ^ “【衆院選】渡辺喜美氏の妹が出馬へ 栃木3区、希望の党公認目指す” (日本語). 産経新聞. (2017年10月2日). オリジナルの2018年10月14日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20181014144256/https://www.sankei.com/politics/news/171002/plt1710020014-n1.html 2018年10月14日閲覧。 
  5. ^ “毎日新聞,2017衆院選,選挙,総選挙,栃木 - 毎日新聞” (日本語). 毎日新聞. (2017年10月22日). オリジナルの2018年10月14日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20181014143944/https://mainichi.jp/senkyo/48shu/area/?kid=09 2018年10月14日閲覧。 
  6. ^ 渡辺美知太郎参院議員 自民会派に入会 毎日新聞 2017年10月18日
  7. ^ 議会史に残る追悼演説 選挙区のライバルも登壇政界Zoom”. 日本経済新聞 (2022年9月16日). 2023年1月9日閲覧。
  8. ^ “「まだオヤジ越えていない」墓前で渡辺代表”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2010年7月17日). https://web.archive.org/web/20100719004544/http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100717-OYT1T00703.htm 2010年7月30日閲覧。 [リンク切れ]
  9. ^ 政界引退の渡辺喜美氏「新党ひとり」から目指した第3極づくりと政界再編のなれの果て”. 日刊スポーツ (2022年7月3日). 2022年7月3日閲覧。
  10. ^ 朝日新聞1988年7月24日朝刊2頁
  11. ^ 朝日新聞1988年7月26日朝刊
  12. ^ 朝日新聞1988年7月27日朝刊
  13. ^ 朝日新聞1988年7月28日夕刊
  14. ^ 朝日新聞1988年8月3日夕刊
  15. ^ 毎日新聞1988年8月3日夕刊1頁
  16. ^ このとき、渡辺の発言とともに、サンリオが黒人をモチーフとしたキャラクターが問題視されたことも取り上げられている。
  17. ^ 朝日新聞1988年8月13日夕刊
  18. ^ 木村幹英語メディアの慰安婦報道とその傾向 : 90年代初頭の報道を中心に」『国際協力論集』第23巻第1号、神戸大学大学院国際協力研究科、2015年7月、1-19頁、doi:10.24546/81009070ISSN 0919-8636NAID 1100099309262021年5月1日閲覧 
  19. ^ 農林水産大臣 武部勤
  20. ^ 原田義昭公式ホームページ プロフィール
  21. ^ おこのぎ八郎 プロフィール

外部リンク 編集

議会
先代
坂村吉正
  衆議院内閣委員長
1976年
次代
正示啓次郎
公職
先代
宮澤喜一
  国務大臣副総理
1991年 - 1993年
次代
後藤田正晴
先代
中山太郎
  外務大臣
第114代:1991年 - 1993年
次代
武藤嘉文
先代
村田敬次郎
  通商産業大臣
第45代:1985年 - 1986年
次代
田村元
先代
竹下登
  大蔵大臣
第85代:1980年 - 1982年
次代
竹下登
先代
中川一郎
  農林水産大臣
第2代:1978年 - 1979年
次代
武藤嘉文
先代
早川崇
  厚生大臣
第55代:1976年 - 1977年
次代
小沢辰男
党職
先代
櫻内義雄
政策科学研究所会長
第5代:1990年 - 1995年
次代
中曽根康弘 (代行)
先代
伊東正義
自由民主党政務調査会長
第33代:1987年 - 1989年
次代
村田敬次郎