渡辺通 (武将)

戦国時代の武将。毛利氏の家臣。

渡辺 通(わたなべ かよう/とおる)は、戦国時代武将毛利氏の家臣。

 
渡辺通
渡辺太郎左衛門尉通
毛利博物館「毛利元就座備図」より)
時代 戦国時代
生誕 永正8年(1511年)?
死没 天文12年5月7日1543年6月9日
改名 虎市(幼名)→通
別名 太郎左衛門尉(通称
主君 山内直通毛利元就
氏族 嵯峨源氏融流渡辺氏
父母 父:渡辺勝、母:庄原元祐娘?
兄弟 女(国司元相正室)、
山内氏の乳母烏森[1]の娘
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出自 編集

渡辺氏源頼光の家臣・渡辺綱の後裔で、嵯峨源氏の伝統に従い、代々一字名を名乗った。

生涯 編集

大永4年(1524年)、父・渡辺勝毛利元就の弟・相合元綱を擁立して元就に反乱を起こそうとして粛清されると、通は乳母と共に備後国国人山内直通の下に逃亡した。通は山内直通のもとで元服し、「通」の偏諱を与えられている。天文3年(1534年)から天文4年(1535年)にかけて元就は山内氏と親睦を図っており、丁度良い機会であると思った山内直通は、通の毛利氏復帰と渡辺氏再興を元就に要請した。元就は渡辺氏再興にあまり乗り気ではなかったが、山内氏懐柔のためには受け入れるべきだと判断したため、通は毛利氏に復帰することを許された。

天文9年(1540年)からの吉田郡山城の戦いにおいては、元就の作戦に従って別働隊を率いて伏兵となり、奇襲によって数倍の兵力を擁する尼子誠久を撃破している。

天文11年(1542年)、大内義隆による第一次月山富田城の戦いでは毛利家臣として従軍する。翌天文12年(1543年)、大内軍は月山富田城を攻めるが難航。さらに糧道にて尼子軍のゲリラ戦術を受け兵站の補給に苦しんだ上に、尼子方から大内方に鞍替えして参陣していた三刀屋久扶三沢為清本城常光吉川興経などの国人衆が再び尼子方に寝返ったことにより、大内軍は撤退を開始する。殿軍を命じられた毛利軍が領国の安芸国へ撤退する途中、石見国の大江坂七曲りで尼子軍に追い詰められると、渡辺通・内藤九郎右衛門元茂波多野源兵衛井上与三右衛門元有井上源左衛門三戸与五郎三戸小三郎ら七人が元就の身代わりとなって囮役を引き受け、奮戦した末に討死した。彼らが戦死した場所が、現在の島根県大田市温泉津町小浜の七騎坂といわれる[2]。また、通の同族である渡辺平蔵もこの時に討死している[3]

 
渡辺通終焉の地「七騎坂」

無事安芸への帰還を果たした元就は、通の献身に感動し、決して渡辺の家を見捨てないと誓い、通の子・を股肱の臣として重用した。その姿勢は毛利家の子々孫々まで受け継がれ、長州藩の正月の甲冑開きの儀式は代々、渡辺家の者が先頭の栄誉に与かることになった。また、寛保2年(1742年5月7日には常念寺に通の功績を刻んだ功徳碑が建てられている。

脚注 編集

  1. ^ 夫は備後国岡氏
  2. ^ 毛利元就の影武者終焉の地「七騎坂(ひちきさか)」 - 温泉津町の紹介:ひろしま観光ナビ(広島県観光連盟)
  3. ^ 閥閲録』巻87「渡邊助兵衛」家譜。

出典 編集