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出自・姻戚編集

父親は幕臣で英学者、翻訳者、実業家であり、沼津兵学校教授であった渡部温(但し同校は康三の誕生前に廃止)。兄に農学者、実業家の渡部朔がおり、父・温の死後は親代わりの存在。叔父(母の弟)に、幕末に柳河春三の「中外新聞」に関係し、維新後に沼津兵学校で学び英語と工学を専門とした陸軍工兵中佐、成澤知行

今一人の叔父(母の末弟)に、陸軍少佐、山口鋠八甲田雪中行軍遭難事件の大隊長として遭難)がある。 叔父・知行の子に、陸軍参謀本部中佐・宣伝部宗教班長・成澤知次がおり、太平洋戦争中に、徳川頼貞侯爵の下でフィリピンでのキリスト教と音楽に関する宣撫活動に従事した。

コルネット奏者としての軌跡編集

東京音楽学校に入学するも、当時は楽器別の専攻制度は確立されておらず、「器楽部」所属とのみ記録されている。音楽学校での管楽器の教育も完備されておらず、実技の殆どは陸海軍軍楽隊などに赴いて習得したものと思われる。

1901年(明治34年)3月31日に奏楽堂で行なわれた瀧廉太郎渡欧送別演奏会で、当日唯一の管楽器奏者として出演し、フランツ・アプト作曲「森の朝」(原曲特定不可能・声楽曲からの編曲か)を演奏した。

また、卒業後の1904年12月には「吊祭会兼月次演奏会」でベートーヴェン「エグモント」の一部を演奏した記録もあるが、どの部分かは明らかでない。その後は音楽家としての活動は行なっていない。なお、在学中はアウグスト・ユンケル指揮のオーケストラでコルネットのみならずトランペットも演奏していたが、個人名を明記した演奏記録は、上記以外にはない。

オペラ「オルフェウス」上演とのかかわり編集

日本人による最初のオペラ上演とされているグルック作曲「オルフェウス」は1903年(明治36年)7月23日に、ノエル・ペリー指揮、ラファエル・フォン・ケーベルのピアノ伴奏で行なわれ、声楽専攻の柴田環(後の三浦環)などが出演した。合唱には渡部康三自身や、オーボエの草分となる島田英雄日本聖公会の聖職者で英語教育者である静岡学問所出身の幕臣、島田弟丸の子)などが参加している。

この公演の費用は、殆どが渡部朔が弟の渡部康三の卒業祝い(同年夏に卒業、当時は秋から夏までの欧米式の学期制)として渡した1000円(現在では数百万円とされる)を使ったものであった。また歌詞の翻訳には、東京帝国大学や東京外国語学校の学生だった乙骨三郎石倉小三郎近藤朔風(逸五郎)などが加わり、いずれも後に音楽評論家、訳詞家として名を成している。因みに乙骨三郎の父親、乙骨太郎乙は、沼津兵学校教授として、渡部康三の父、渡部温の同僚であった。

卒業演奏の記録(オペラ「ゼッキンゲンの喇叭手」とのかかわり)編集

オペラ上演に先立つ7月10日に卒業演奏があり、やはり当日唯一の管楽器奏者としてヴィクトル・ネスラー(ネッスラー)作曲のオペラ「ゼッキンゲンの喇叭手」(ゼッキンゲンのトランペット吹き)からのアリアをコルネットで演奏している。このオペラは1880年代に在独中の森鷗外も関心を寄せるなど、部分的には知られていたが、日本での全曲の上演は2006年10月の、山形県長井市(物語の舞台となったバート・ゼッキンゲン市の姉妹都市)で、音楽史家、瀧井敬子の企画によるものまで、一世紀以上を待たねばならなかった。

音楽家としてのキャリアの終わりとその後編集

オペラ公演の裏方としての実績とは裏腹に、演奏家としての技量は評価されず、本格的な交響楽団も未だ誕生していない状況から、演奏家として立つ事は出来なかった。後に実業界(造船業)に転ずるが、この面でも成功したとは言えず、晩年は太平洋戦争後までの長い隠居生活を送った。なお、事業の失敗には小型船での木製から鋼鉄製への変化期に、その潮流を読めなかったことが原因であったとされる。晩年には経済的にも余裕を欠く状態だったと伝えられる。

墓は父(温)、兄(朔)らと共に、東京・谷中霊園にある。

参考文献・関連サイト編集