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渤海使(ぼっかいし)は、渤海より日本を訪問した使節である。727年秋から922年までの間に34回(このほか927年東丹国契丹)による派遣が1度)の使節が記録に残っている。

概要編集

渤海698年大祚栄により建国されたが、大武芸の時代になると新羅と外交的に対立するようになり、国際的孤立に陥りそうになった渤海が、これらの勢力を牽制する目的で日本への遣使が計画された。使節団が日本に向かった出発地点は、ロシア沿海地方ポシェト湾近くにあるクラスキノ土城(塩州城)遺跡が有力とされる[1]

渤海側は軍事同盟を結ぼうとして使節を送っていたが、日本側は突然、貢物を持って来朝してきたところから、これを日本の国威を慕って、日本に従属を願い出て、従国の礼をとってきた朝貢であると捉え[2]、使節を非常に厚遇している。

しかし大欽茂の時代になり、唐との融和が図られる時代になると軍事的な意味合いは薄れ、もっぱら文化交流と経済活動を中心とした使節へとその性格を変化させていった。特に問題となったのは朝貢貿易の形態を取ったことで、これにより渤海からの貢物に対して日本側では数倍の回賜でもって応える義務が生じ、渤海に多大な利益をもたらした。日本側は、朝廷の徴税能力が衰え、使節供応と回賜のための経費が重荷となった後は、使節来朝を12年に1度にするなどの制限を加えたが、その交流は渤海滅亡まで継続した。

唐渤関係の安定化に伴い、日唐間の交通の仲介として機能した。

貿易品目編集

8世紀後半以降は渤海からはもっぱら北方産の獣皮(貂、虎、羆などの毛)また人参、蜜、日本からは繊維製品がほとんどで、他に金・水銀、金漆(山地に自生するコシアブラの木の実から搾り取った樹液で、強化剤や硬化接着剤として古代では用途の広い重宝な樹液)海石榴油一缶(髪油などの化粧用、皮革、金属の保存、さび止めなどに使用)水精念珠(真珠)、檳榔樹扇(今でも沖縄や台湾などで土産物として使われる檳榔樹の葉で作った扇)が貿易品目として扱われた。[2]

渤海使一覧編集

回数 来朝年 元号(日) 元号(渤) 正使名 天皇 渤海王 備考 出典
1 727年 神亀4年 仁安5年 高仁義 聖武 大武芸 大使・高仁義ら24名が出羽の蝦夷地(現在の秋田県北部から青森県にかけての日本海沿岸)に漂着したが、蝦夷に襲撃され16名死亡。生き残った高斉徳ら8名が9月に出羽国、12月に平城京に到着し、翌年1月天皇に拝謁。渤海王大武芸からの親書と産物(皮300張など)を献上。6月、送使の引田虫麻呂と共に渤海に向け帰国の途につく。虫麻呂は730年8月に帰国し、渤海からの進物を献上。 続紀
2 739年 天平11年 大興2年 胥要徳 聖武 大欽茂 新王大欽茂即位を告げる使者であり、また、遭難の遣唐使平群広成一行を日本に送る使者でもある。複数の船で渤海を発つが、往路に1隻が転覆し大使ら40人が死亡。残りの船の平群広成と副使の将軍己珎蒙らは7月に出羽国に到着。10月に入京し、広成は11月、己珎蒙らは12月に朝廷を拝する。己珎蒙らは翌年1月、弓射の行事(大射)にも参加し、また別の機会に渤海の音楽の演奏もしている。2月に送使の大伴犬養と共に帰国の途につく。 続紀
3 752年 勝宝4年 大興15年 慕施蒙 孝謙 大欽茂 渤海使輔国大将軍慕施蒙ら75人が越後国佐渡島に到着。坂上老人らを越後に派遣した。翌年5月に朝廷を拝するが、孝謙天皇は大欽茂が国書で臣と称していないことを問題視し、返書で指摘した。6月帰国の途につく。 続紀
4 758年 宝字2年 大興21年 揚承慶 淳仁 大欽茂 副使・揚泰師、判官・馮方礼。初の遣渤海大使・小野田守、副使・高橋老麻呂の帰国に伴い758年9月に越前国に到着。12月に小野田守らは唐の安史の乱を報告。揚承慶らは同月に入京し、翌年1月に朝廷を拝した。国書で大欽茂は「高麗国王」と自称し、淳仁天皇も返書で承認した。滞在中は恵美押勝らが饗宴。この宴で揚泰師が詠んだ漢詩が『経国集』に収録されている[2]。帰国直前に藤原八束(真楯)が餞別の宴を開催。2月の帰国時に迎入唐大使使(在唐の大使藤原清河を迎える使者)高元度・判官内蔵全成ら(人数不明)が同行し、うち99名が渤海に到着した。 続紀
5 759年 宝字3年 大興22年 高南申 淳仁 大欽茂 副使・高興福、判官・李能本、解臂鷹、安貴宝。前回の迎入唐大使使の一部である判官内蔵全成ら80余人(唐に向かった高元度ら11人を除く)の帰国と共に759年10月、対馬に到着。12月に入京。翌年1月に朝廷を拝し、在唐の藤原清河が渤海に託していた上表文を提出。淳仁天皇は大欽茂に感謝の意を示した。2月、送使の陽侯令璆と共に帰国の途につく。陽侯令璆は760年11月に帰国。 続紀
6 762年 宝字6年 大興25年 王新福 淳仁 大欽茂 副使・李能本、判官・楊懐珍、品官着緋・達能信。遣渤海大使の高麗大山(帰国旅程の佐利翼津(出羽国?)で死亡)、副使伊吉益麻呂の帰国に同行派遣。高麗大山らの乗船「能登」で航海。10月、王新福以下23名が伊吉益麻呂らと共に越前国加賀郡に到着。12月に入京。翌年1月に朝廷を拝し、唐での安史の乱について情報提供。この影響で唐使の沈惟岳の帰国が中止。2月に帰国の途につくとき、船が腐っていたため送使・多治比小耳、判官・平群虫麻呂らは渡航せず、船師の板振鎌束に任せて渤海へ向かわせた。8月以前に板振鎌束が留学生を伴って日本に帰国しているので、それまでに渤海に帰国したと推測される(「遣渤海使」参照)。帰国に成功した船「能登」には、8月に従五位下の位階と錦冠が授けられた。 続紀
7 771年 宝亀2年 大興34年 壱万福 光仁 大欽茂 青綬大夫壱万福ら325名が6月、船17隻で出羽国の賊地(蝦夷の地)野代湊(能代港)に到着し、常陸国に移される。12月末に入京。翌年正月の朝賀などに参加したが、国書で大欽茂は「天孫」を自称していたため、旧来と比べて無礼であるとして日本側が受け取り拒否。壱万福が国書を修正し謝罪したため、光仁天皇はこれを受け取り返書を与えた。2月に都を発つ。9月に送渤海客使武生鳥守らと出航するが暴風のため能登国に漂着。能登国福良津(能登客院?)に滞在。773年2月に副使の慕昌禄が死去。 続紀
8 773年 宝亀4年 大興36年 烏須弗 光仁 大欽茂 6月に40人が船1艘で能登国へ到着。壱万福が帰国しないために派遣された。同年10月に送渤海客使(渤海国使・壱万福の送使)の武生鳥守が帰国しているため、それまでに壱万福も帰国したと考えられる。この使者も前回同様に上表文とその函が通例と違っていて無礼である、との能登国司からの報告があり、都に召すことなく帰国させている。また「以降は”旧来通り”筑紫道(大宰府)経由で来るように」と伝達。ただし渤海国使節は出羽から越前に到着するのが常であり、大宰府経由で来たことはないが、高句麗時代の例を指すと見られる(ただし、次回の第9回目の渤海使は大宰府を目指した結果、慣れない航海を強いられたために遭難したため、伝達は事実上撤回されたと見る説もある[3])。 続紀
9 776年 宝亀7年 大興39年 史都蒙 光仁 大欽茂 発ったのは187人だったが、日本到着直前に暴風に遭い船が大破、判官の高淑源ら百数十名が死亡。12月、46人が越前国加賀郡に生存到着。(死者のうち加賀郡と江沼郡に遺体が流れ着いた30人は778年4月、朝廷が越前国に命じて埋葬されている)日本側は「(前回命じたはずだが)大宰府に来るように言ったのに違えたのは何故か」と問い、史都蒙は「一応は対馬を目指したが、暴風で流された」と弁明。朝廷は30人を入京させるように言ったが史都蒙は「100人以上の死人を出しながら、ここまで苦労した46人なので、全員お目通りを願いたい」と返答し、これは叶えられ、777年4月に入京。参内や宴席、行事への参加を行い、渤海の音楽も演奏。5月、送使の高倉殿継高麗大山の子)らと共に帰国するも、暴風に遭い渤海の辺境地域に漂着して船は破損。その他、橘清友項目参照。 続紀
10 778年 宝亀9年 大興41年 張仙寿 光仁 大欽茂 高倉殿継の帰国の送使。渤海船2艘で渡航、9月に越前国三国湊に到着。翌年1月に朝廷を拝し、2月に帰国の途につく。 続紀
11 779年 宝亀10年 大興42年 高洋弼、又は高洋粥 光仁 大欽茂 9月に鉄利人(渤海と対立していたツングース系部族)と合わせて359人が出羽国に到着。「使者は身分が低いので賓客待遇とするには当たらない」「(渤海からの)上表文は無礼であるから進上させてはならない」と記録されている。また、大宰府経由でないことを咎めている。12月、使節らは帰国の船が無いので、船9隻をくれるよう求め、日本側はそれを受け入れた。宇治谷孟は「(鉄利人の)来日は渤海人を巻き込んでの亡命か」と述べている[4] 続紀
12 786年 延暦5年 大興49年 李元泰 桓武 大欽茂 9月、出羽国に来着。出羽国司の報告では「65人が船1隻に乗って漂着。漂着時、蝦夷に襲われ連れていかれた者12人、現在いる者41人」。翌年2月、李元泰は帰国手段が無いことを訴え、朝廷は越後国に命じて船1艘と人員を与えた。 続紀
13 795年 延暦14年 正暦元年 呂定琳 桓武 大嵩璘 796年5月に呂定琳を送り届けるための送渤海客使に御長広岳桑原秋成が任じられ、両名は渤海渡航。呂定琳と回賜品を送り届けて帰国の際に、渤海国王大嵩璘から使者派遣の打診を受けるが、朝廷から渤海使の受け入れについて許可を得ていないことを理由に辞退している。同年10月に渤海王の啓を携えて両名帰国。 国史
14 798年 延暦17年 正暦4年 大昌泰 桓武 大嵩璘 12月に到着。遣渤海使・内蔵賀茂麻呂の帰国に同行か?前回の啓(渤海国王の書状)中に両国間の遣使の渡航間隔を定めて欲しいとの申請があったことから、賀茂麻呂は渡航間隔を6年とする璽書を携えて渤海国に派遣された帰路であった。ただしこの6年間隔は渤海側に受け入れられず、日本側もこの制限を撤回している。799年、賀茂麻呂は「渤海国から帰国の際に漂流していたところを比奈麻治比売神(隠岐西ノ島の西北端)の霊験による火光に導かれて救われた」として、比奈麻治比売神を官社として奉幣することを言上し許されている。これにより、賀茂麻呂が同行していたとするなら、渤海から日本への渡航中に荒天に見舞われたことが推測される。 国史
15 809年 大同4年 正暦15年 高南容 嵯峨 大嵩璘   国史
16 810年 弘仁元年 永徳元年 高南容 嵯峨 大元瑜 5月に越前から帰国する際に「首領」の高多仏が脱走。越中国に移され、史生の羽栗馬長らが高多仏から渤海語を学んだ。高南容を送るため林東人が送使として派遣される。これを最後に日本からは遣使も送使も派遣されなくなる[2] 後紀
17 814年 弘仁5年 朱雀2年 王孝廉 嵯峨 大言義 9月、出雲国に来着。滋野貞主坂上今継が存問兼領渤海客使に任ぜられる。翌815年1月の宴で詠まれた坂上今継、大使・王孝廉、録事・釈仁貞の漢詩が『文華秀麗集』に収録[2]。帰国の途についた後、暴風で船が破損したため、越前国で新船が建造されたが、王孝廉、釈仁貞、判官・王昇基らは疱瘡(天然痘)のため死亡。副使・高景秀らは816年5月帰国。 後紀
18 818年 弘仁9年 朱雀5年 慕威徳 嵯峨 大言義   国史
19 819年 弘仁10年 建興元年 李承英[5] 嵯峨 大仁秀   国史
20 821年 弘仁12年 建興3年 王文矩[6] 嵯峨 大仁秀 822年1月の宴で一行は打毬を披露し、これに感嘆した嵯峨天皇と滋野貞主の漢詩が経国集に収録されている[2] 国史
21 823年 弘仁14年 建興5年 高貞泰 淳和 大仁秀 11月、加賀に来着。大雪により京と加賀の交通が断絶。このため存問渤海客使の派遣が停止され、加賀守紀末成が慰問を担当。この使節は日本側に入京を拒否されたが、献上した契丹大犬(蒙古犬)は平安京に運ばれ、翌年4月に神泉苑に行幸した天皇の面前で鹿を逐った[2] 国史
22 827年 天長4年 建興9年 王文矩 淳和 大仁秀 12月、隠岐に来着。824年に右大臣藤原緒嗣により「渤海使は国賓ではなく貿易商人である」と判断されて、以降12年に一度とされる。のちに6年に一度に緩和。 国史
23 841年 承和8年 咸和11年 賀福延 仁明 大彝震 12月、長門国に到着。存問渤海客使として山代氏益小野恒柯が派遣される。入京後は鴻臚館に滞在。藤原諸成藤原春津藤原氏宗山田文雄が応接対応している。 続後記
24 848年 嘉祥元年 咸和18年 王文矩 仁明 大彝震 大学権大允山口西成が存問渤海客使となり、加賀国から平安京まで引率した。平安京の鴻臚館に滞在。節会において応対之中使として藤原衛が陪席し、使節は藤原衛の儀範を賞賛。5月の帰国時に参議小野篁小内記安野豊道藤原春津橘海雄ら文官達が鴻臚館にて勅書太政官牒を伝達した。 続後紀
25 859年 天安3年 烏孝慎 文徳 大虔晃 副使・周元伯。104名派遣。越前国に来着し、従七位越前権少掾という卑官だった島田忠臣が急遽加賀権掾に引き上げ任じられて接客使となる。忠臣は周元伯と漢詩を唱和。大内記安倍清行が領渤海客使に任じられるが父安仁の死去により辞任。この使節が『長慶宣明暦経(宣明暦)』を伝えている。のち暦博士大春日真野麻呂が強く推進し、朝廷はこれを採用。 実録
26 861年 貞観3年 李居正 清和 大虔晃 105人が隠岐国に到着。散位藤原春景が領渤海客使。違期を理由に入京を拒否される。近江国石山寺蔵の『仏頂尊勝陀羅尼記』の奥書には、渤海使李居正によってもたらされた、と記されている。 実録
27 871年 貞観13年 楊成規 清和 大虔晃 副使・李興晟。加賀国に到着。当時の加賀権掾島田良臣。872年1月6日に存問渤海客使に菅原道真が任じられるが、同月26日に母の服喪で辞任。交代した存問渤海客使の大春日安守は4月に加賀に移動し、使節が持参した啓牒の内容について審問している。大春日安守に伴われて5月に入京。参議源舒鴻臚館にて渤海国王の親書と献上品を受け取っている。式部少丞平季長大内記都言道(この任命を機に都良香と改名した[2])が掌渤海客使に任じられ接待を担当。その他大学頭巨勢文雄越前大掾藤原佐世が饗宴のために鴻臚館へ遣わされている。大使は詩才があり、高階令範橘広相らと交流した。帰国時は領帰渤海客使の常陸少掾多治守善と文章生菅野惟肖が応接した。この頃の平安京に「咳逆病」が蔓延し、渤海使が持ち込んだと噂された。 実録
28 876年 貞観18年 楊中遠 清和 大玄錫 2月、存問渤海客使兼領客使に伊伎月雄大春日安名(前回の大春日安守の一族)。3月に伊伎月雄が領客使を兼ねる。違期を理由に入京を拒否される。 実録
29 881年 元慶5年 陽成 大玄錫 1月、能登に到着。平安京に4月から1ヶ月ほど滞在。少外記大蔵善行式部少丞高階茂範が存問兼領渤海客使に任ぜられ、文章得業生紀長谷雄右衛門大尉坂上茂樹が掌渤海客使に任じられ応接を担当。 和気彜範が鴻臚館にて貢物と返礼品の受け渡しを行っている。漢詩・漢学の知識のあった菅原道真治部権大輔)や道真の推挙により都に呼び戻された島田忠臣玄蕃頭)らと漢詩の交流を行う。883年の端午節会に際して陽成天皇が皇居武徳殿に渤海使を召喚した際、安倍興行が応接を務めている。また、883年の陽成天皇の勅に「能登国をして(能登国)羽咋郡福良泊山木を伐損するを禁ぜしむ。渤海客北陸道岸に著するの時、必ず還舶を此の山にて造る」とあるため、この頃の渤海使の帰路の船は能登で建造されていたと推測される。 紀略
30 892年 寛平4年 王亀謀? 宇多 大玄錫   紀略
31 894年 寛平6年 宇多 瑋瑎 伯耆国に来着。895年1月、存問渤海客使に三統理平、伯耆権掾に橘澄清 紀略
32 908年 延喜8年 醍醐 諲譔 掌渤海客使に式部少丞紀淑光散位菅原淳茂(菅原道真の子。連座して左遷後)。供応の際に大江朝綱が作った漢詩(「夏夜於鴻臚館餞北客」)が『本朝文粋』に採録されている。 紀略
33 919年 延喜19年 醍醐 諲譔 105名。越前の敦賀半島の丹生浦に来着。同地の松原客館に移されるも、館の管理がなっておらず不便であった(『扶桑略記』)。帰国時に4名が逃走。 紀略
34 922年 延喜22年 不明 醍醐 諲譔   扶桑
35 927年 延長7年 天顕2年 醍醐 耶律突欲 丹後国竹野浜に来着。926年の渤海国の滅亡後に東丹国契丹)に仕えた、裴が東丹国の使者として来朝。存問使として親交のあった藤原雅量が派遣された[2]。(これまで二度の裴の来訪と違い)何故国名が変わったのかを問われた裴は渤海国が契丹に征服され滅亡したことを知らせ、かつ東丹王(耶律突欲(耶律倍))の非道ぶりを訴えた。朝廷は主君を変えたばかりか新主の悪口を言うとは不届きな、「不義不忠の者」として入京させずに追い返した。これにより東丹国が日本海側までも勢力範囲としていたこと、旧渤海国の人材を採用していた、渤海国に成り代わって日本との通交を意図していたこと、日本はそれを求めていなかったこと、が窺える。雅量は裴に同情したらしく、後に回想した漢詩が『扶桑集』に残っている[2] 紀略

注:926年に渤海は滅亡。第35回使節は東丹国契丹)よりの使者が渤海使を名乗ったものである。天顕はの年号。

脚注編集

  1. ^ 田村晃一 2013年(平成25年)
  2. ^ a b c d e f g h i j 上田雄『渤海国の謎』講談社現代新書 1992年 ISBN 4061491040 63頁、120頁、128頁、75頁、138頁、144頁、114頁、122頁、172頁、173頁
  3. ^ 堀井佳代子「対渤海外交における太政官牒の成立」(初出:『日本歴史』744号(2010年5月)/所収:堀井『平安前期対外姿勢の研究』臨川書店、2019年)2019年、P59-60.
  4. ^ 宇治谷孟『続日本紀(下)全現代語訳』講談社学術文庫 1995年 ISBN 4061590324 468頁
  5. ^ 李承英の官名は「文籍院述作郎」
  6. ^ 数度来日。のち日本に帰化したとされる。

参考文献編集

関連項目編集

外部リンク編集