湯村 輝彦(ゆむら てるひこ、1942年昭和17年〉11月1日 - )は、イラストレーターデザイナー漫画家音楽評論家である。

ヘタウマなイラストと、スウィート・ソウルなどのR&Bや、ギャングスタ・ラップ、Gファンクのフリークとしても知られる日本グラフィック界の大ベテラン。東京都新宿区角筈(現在の西新宿)生まれ。ペンネーム、別名義はTerry Johnson(テリー・ジョンスン)、ゴンゾスタ-T、ゴンゾ。また、かつては、「フラミンゴ・テリー」、「FRAMINA TERRENO GONZO」、「TERRINO FLAMINI' GONZAREZ」、「紅鶴照万太」などのペンネームも用いていた。愛称は「キング・テリー」(略して、「キンテリ」とも)。

「フラミンゴ・スタジオ」を主宰している。イラストレーターの湯村タラは妻で、おしどり夫婦として知られる。また、長男もRICKY名義でイラストレイター、デザイナーとしての活動を行っている。

人物・経歴 編集

父親は明治座の支配人で、そのため、幼稚園から中学2年まで、月に1回は歌舞伎を見にいったという。裕福であったため、少年漫画雑誌はすべて購読。なかでも杉浦茂の大ファンで、単行本をコンプリートしていという。また、一人っ子で、病弱な少年だったという。中学3年の時に、父親が倒れ、それからは新聞配達のアルバイトなどをし、家計を助けた。だが、高校時代は不良となってしまった。その後も毀誉褒貶の時代が続くが、現在の妻のタラ(湯村が32歳の時に出会い、1977年の35歳の時に結婚。なお、湯村は20代の時に1度結婚し、別れている。)と出会ってから、穏やかな性格になったという。

青山学院中等部から、同高等部に進み1961年卒業。多摩美術大学を受験するが失敗し、YMCA英語学校にて浪人生活をする。翌年、多摩美術大学平面図案科(現在のグラフィック・デザイン科)入学。山名文夫に師事する。1966年春、卒業制作課題違反連続のため、卒業が秋まで延期される。だが、この卒業制作のひとつが『アイデア』誌(誠文堂新光社)の優秀作品に選ばれる。在学中から、同大学の先輩、和田誠を尊敬していた。また、中学、高校、大学を通じての先輩にあたるのが原田治だった。卒業後、デザイン事務所につとめるが、3か月で通勤が嫌になり、会社に願い出て嘱託勤務となり、自宅で仕事をするようになる。

最初のイラストレーションの仕事は『女性自身』(光文社)のコラムのカットであった。やがて、三菱石油のためのイラストレーションがメインの仕事となる。この仕事で、1968年度東京イラストレーターズ・クラブ新人賞を受賞[1]。嘱託だった会社からも完全に独立し、専業のイラストレーターとなる。

受賞記念パーティで矢吹申彦を知り、意気投合してY2というチームを作る。その後、河村要助も参加し、「100パーセント・スタジオ」と改名する。このころ、グラフィック・デザイナーの舟橋全二と知り合う。当時は「ブッシュ・ビン・スタジオ」の全盛期であり、大きな刺激を受ける。また、アート・ディレクター江島任を知り、刺激を受けた。また、『男の雑誌 NOW』(文化出版局)で、イラストレーションや漫画を描く等する。1970年、ロッテの「ボンボンガム」のCMではボディペインティングの踊る女性のデザインを担当した[2][3][4]

1972年に、「100パーセント・スタジオ」を解散。1974年、河村要助、原田治、佐藤憲吉大西重成と「ホームラン」というイラストレーター・チームを結成。ニュース・ペーパー「ホームラン」を創刊する。しかし数か月でこのチームは分解する。

1975年、自身のスタジオで現在まで続く、「ORIGINAL FLAMINGO STUDIO」を創設。メンバーは、イラストレーターのペンギンジョーこと永井博、アート・ディレクターの秋山政美、カメラマンの吉岡英隆、コピーライターの糸井重里等であった。

1976年、糸井とともに制作した、ウェルジンの広告でADC賞を受賞する。このころは、マイナーな仕事を多数こなしていた。また糸井と共作の絵本『さよならペンギン』(すばる書房)を刊行する。

同年、『NOW』での湯村の漫画作品を読んでいた漫画雑誌『ガロ』(青林堂)の編集者である南伸坊から、漫画執筆を依頼される。湯村は、糸井重里の原作で『ペンギンごはん』という作品を発表。かわいいペンギンが登場するが、ストーリーは陰惨な内容というパンクな作品であった。以降も『ガロ』に『ペンギンごはん』シリーズ作品を発表し(1977年は『ガロ』の表紙も1年間担当した)、1980年に『情熱のペンギンごはん』として刊行。ヘタウマ漫画の金字塔となり、1980年代におきるヘタウマブームの先駆となる。

1977年資生堂より、"KENZO SHOW IN TOKYO"の仕事が入る。以後メジャーな仕事がふえる。以降、広告のイラスト、雑誌や書籍やレコードやCDのカバー絵、雑誌のイラスト、絵本などを手がけ、その個性的な、エロで生々しい匂いを放つ絵柄で、現在も精力的に活動を続けている。

イラスト界の大御所でありながら、現在もメジャーな仕事から、小部数の雑誌等のマイナーな仕事まで、非常に幅広くてがけている。クレイジーケンバンドのCDのジャケット・ワークを手がけていることで知られる。

「フラミンゴ・スタジオ」は主にデザインをやっており、「デザイン事務所の社長」でもある。また、スウィートなソウル・ミュージックギャングスタラップのマニアであることから、『湯村輝彦ヒットパレード』『甘茶ソウル百科事典』『ギャングスタ・ラヴ』という音楽本も刊行している。27歳からをわずらっており、痔についての本も刊行。またハゲについての絵本も刊行している。

猫好きでもあり、愛猫5匹との日常を綴ったほのぼのエッセー『テリーのネコメロ』を『アックス』誌(青林工藝舎)に連載を持った。

著書 編集

挿絵を担当 編集

受賞 編集

  • 1968 東京イラストレーターズクラブ新人賞
  • 1976 東京アートディレクターズクラブ(ADC)賞
  • 1981 東京アートディレクターズクラブ(ADC)賞

展覧会 編集

西武美術館、アムステルダム・ステーデリック美術館、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館、板橋区立美術館AXISギャラリー川崎市市民ミュージアムギンザ・グラフィック・ギャラリーなどで開催。

ビデオ 編集

  • グラフィックアート1 テリー1 1990

トリビュート 編集

関連人物 編集

  • 中島貴子(タカコスタ・ロドリゲス)
  • ビリー・ブラックモン
  • ムーディ・ムーニー - 甘茶本の共著者
  • あんちゃん - オープニングとエンディングのイラストを担当
  • 杉浦茂 - 湯村は青年期以降、漫画に興味がなくなるが、杉浦茂については一貫して熱狂的なファンであった。80年代に発行されたカセットテープ付マガジン『TRA』の、84年のコミックス特集号で対談もしている。
  • ヒロ杉山 - 元フラミンゴ・スタジオ勤務。
  • 戸川昌士 - 交友のある湯村ファン。レコードマニアにして、古書店「ちんき堂」主人。戸川の本の装丁はすべて湯村が手がけている。

関連項目 編集

脚注 編集

  1. ^ 湯村輝彦 2023年5月29日閲覧
  2. ^ 「CMエポック史「創生紀から新生紀をたどる」 / 編集部」『月刊アドバタイジング』第35巻第3号、電通、1990年3月25日、40頁、NDLJP:2262094/22 
  3. ^ 「セクシー / 伴田良輔」『広告批評』第186号、マドラ出版、1995年8月1日、30 - 31頁、NDLJP:1853158/17 
  4. ^ 「からだを広告する / 仲畑貴志 ; 天野祐吉」『広告批評』第195号、マドラ出版、1996年6月1日、36 - 37頁、NDLJP:1852913/20 
  5. ^ 『東京ガス 暮らしとデザインの40年 1955→1994』1996年2月1日発行、株式会社アーバン・コミュニケーションズ。128頁~131頁

参考文献 編集

  • 『ザ・ヒーローズ 宝島ロング・インタビュー集』JICC出版局 1982年
  • 和田誠『仕事場対談』河出書房新社 2001年

外部リンク 編集