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湯殿山神社(ゆどのさんじんじゃ)は、山形県西村山郡西川町本道寺にある神社である。もとは本道寺という真言宗寺院であり、全国のほかの湯殿山神社と区別するため、口ノ宮湯殿山神社とも呼ばれている。旧社格では無格社。

湯殿山神社
本道寺湯殿山神社・拝殿
所在地 山形県西村山郡西川町本道寺大黒森381
位置 北緯38度27分11.5秒
東経140度3分26.8秒
座標: 北緯38度27分11.5秒 東経140度3分26.8秒
主祭神 大山祇神大己貴命少彦名命
社格 旧無格社
創建大同4年(809年
本殿の様式 流造
別名 口ノ宮湯殿山神社
例祭 9月8日
地図
湯殿山神社の位置(山形県内)
湯殿山神社
湯殿山神社
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目次

祭神編集

湯殿山祭神である大山祇神大己貴命少彦名命の3神である。月読命月山の祭神)・伊弖波神(羽黒山の祭神)を配祀する。

歴史編集

明治初頭までは、神仏習合修験道羽黒派修験)の山、出羽三山湯殿山派の別当寺4か寺の1寺である月光山本道寺であった[1]

神社の由来によると、本道寺は、大同4年(809年)に、湯殿山に参拝した空海によって開基された。空海は、この地にての中で光る老木から大日如来大黒天2体の仏像を造り、に安置したと言う。この地を旅立つ際、空海は従僧の一人に対し、「ここは、湯殿山大権現へと通ずる本道である。汝は私の代わりにここを守り、湯殿山への日月の代参を行うべし。さすれば大権現の霊験が世に現われるだろう」と言い残したという。当初は、2体の仏像が安置された庵を「月光山光明院」と称した。

その後、天長3年(827年)に湯殿山大権現勧請して伽藍が造られ、これ以降月光山本道寺と称し、湯殿山4か寺となった。本道寺は、空海の遺訓もあって、4か寺の正別当として湯殿山の中心的な別当寺となった。

本道寺は歴代の領主にも崇敬された。古くは大江氏の流れを汲む寒河江氏、ついで最上氏の崇敬を受けた。江戸時代には、梁間18間、桁68間という東北一の大伽藍を誇り、湯殿山として徳川氏の七祈願所の一つ、勅許による勅願寺にもなっていた。「出羽三山参拝の本道」とされたため、本道寺を通る六十里越街道には多くの行者が行き交い、街道沿いの集落は、「(参拝のピークである)夏の稼ぎだけで遊んで暮らせた」ほどの繁栄を誇った。

明治元年(1868年)、本道寺の周辺は、戊辰戦争の戦場となった。天童藩を陥落させた後、この地に進出した薩摩藩尾張藩を中心とし、恭順した東北諸藩を従えた新政府軍と、庄内藩桑名藩による旧幕府軍との間で戦闘が行われた。旧幕府軍の敗走後、本道寺は、将軍家の祈願所であったために、新政府軍の攻撃を受け、大伽藍を焼き払われてしまう。(入間森畑の戦い)

さらに、明治7年(1874年)に神仏分離令が発せされると、本道寺は寺号を廃して口ノ宮湯殿山神社となった。戊辰戦争の際に焼き払われた伽藍は、浄財により明治22年(1890年)に拝殿本殿として再建されたが、その規模は、往時に比べて大きく縮小された。

1877年(明治10年)、山形県初代県令三島通庸により、口ノ宮湯殿山神社から分霊され、県庁守護として山形市旅篭町に県社湯殿山神社が建立された。旧県会議事堂(文翔館)裏に現存する湯殿山神社は、これに由来する。

なお、神仏分離に際し、戦災を免れた本道寺の寺宝は、出羽三山から分離した大日坊、注連寺の2寺を始め、縁のある諸寺院に引き取られたが、その後、散逸してしまったものが多い。例えば、本道寺の仁王像は、河北町にあった弥勒院(みろくいん)に引き取られていたが、1905年(明治38年)に仙台駅前にある仙台ホテルが建て替えした際、弥勒院が同ホテルに売却した[2]2005年(平成17年)に仙台ホテルの所有者・運営者が替わり、全面改装することになったため、同年11月15日に口ノ宮湯殿山神社に寄贈され[2]、現在は拝殿に安置されている。その他、1989年(平成元年)に空海坐像を栃木県内の古美術商から買い戻している。

境内編集

  • 鳥居
  • 山門(「湯殿山」額が有名。瑞鳳寺の高僧であった南山の揮毫)
  • 拝殿
  • 本殿
  • 石仏
  • 仏足石(日本国内に現存する3尊のうちの1尊)
  • 十二面山神・地蔵尊(境内にあり、神仏習合の歴史を偲ばせる)
  • 八日塔碑、太神宮碑、金比羅大権現碑、百万遍供養塔、湯殿山供養塔等

脚注編集

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  1. ^ ほかの3寺は鶴岡市大網の大日坊注連寺、西川町大井沢の大日寺(現大日寺跡湯殿山神社)である。
  2. ^ a b 仙台ホテルの仁王様 100年ぶり山形に里帰り(河北新報 2005年10月31日)

外部リンク編集