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経歴編集

早稲田大学中退後、新聞記者を経て老壮会の世話人、さらに大川周明北一輝らとともに猶存社を結成、猶存社解散後は安田共済事件まで行地社に所属するなど、アジア主義に立脚した国家改造運動をすすめた。拓殖大学教授。大川や北らをはじめとするアジア主義者や国家主義者、政界・官界・軍部だけではなく、社会主義者やデモクラットらとも幅広い親交を結んだ。 大川と北とは、思想的に対極に位置するが、一時期、二人は行動を共にした。これは、二人の間を穏やかで世話好きな満川が二人の間を取り持ったからである。[1]

また、1919年(大正八年)5月には、「何故に過激派を敵とする乎」と題する文章を発表し、ソ連政府を承認すべきことを訴えている。

国立国会図書館憲政資料室では、満川の日記・原稿類や周辺人物からの書簡などがまとめられた「満川亀太郎関係文書」が所蔵・公開されている。

関連文献編集

著作編集

伝記編集

関連項目編集

脚注編集

  1. ^  <<田原総一朗>>著『日本近現代史の「裏の主役」たち』440頁

外部リンク編集