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源 仲章(みなもと の なかあきら)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての貴族御家人儒学者宇多源氏左大臣源雅信の後裔で、河内守源光遠の子。官位従四位上文章博士

経歴編集

父・光遠も後白河院近臣として院判官代を務めるなど、院近臣の家に生まれて後鳥羽上皇に仕えるが、早くから鎌倉幕府にも通じて在京のまま御家人としての資格を得る。京都では、正治2年(1200年)頃から在京御家人としての活躍が記録され、盗賊の追捕や幕府との連絡係を務めた。建仁3年(1203年)には阿野全成の三男・頼全を処刑している(『吾妻鏡』建仁3年7月25日条)。その後、鎌倉に下って建永元年(1206年)頃より、3代将軍となった源実朝侍読(教育係)となる。京都においては学者としての実績に格別なものは無かったが、博学ぶりにはそれなりの評価があったらしく、学問に優れた人材に乏しい鎌倉においては幼少の将軍の教育係に適した人物とされた。実朝から気に入られた仲章は将軍の御所の近くに邸宅を与えられた。その一方で、廷臣としての地位も保持して、時折上洛して後鳥羽上皇に幕府内部の情報を伝えるなど、今日で言うところの二重スパイの役目を果たした。

それでも、鎌倉幕府初期の人材不足のためか、建保4年(1216年)には政所別当に任じられた。別当は一人ではなく、2人~5人制で職務を担当した。当時の別当は、大江広元と仲章以外には、源頼茂大内惟信等がいる。一方、官位も相模守から大学頭を経て、建保6年(1218年)には幕府の推薦という名目で従四位下・文章博士と、順徳天皇の侍読を兼務して昇殿を許されるに至った。

だが、建保7年(1219年)実朝の右大臣任官の祝賀の拝賀の日、鶴岡八幡宮において実朝の甥の公暁によって実朝と共に殺害された。『愚管抄』には北条義時と間違えられたと記されているが、仲章が持つ二重スパイ的な立場から、彼自身が初めから襲撃の目標に含まれていたのではという説もある[1]

系譜編集

脚注編集

  1. ^ 五味文彦「源実朝-将軍独裁の崩壊」(『歴史公論』、1979年)。実朝は北条氏の傀儡ではなく将軍親裁が機能しており、後鳥羽上皇との連携を目指した実朝に対し、北条義時・三浦義村ら鎌倉御家人が手を結んで、実朝および後鳥羽と実朝を結びつける後鳥羽の近臣・仲章の排除に乗り出したとの説。

参考文献編集