メインメニューを開く

溝口 重元(みぞぐち しげもと)は、江戸時代中期の大名越後国新発田藩5代藩主。官位従五位下伯耆守

 
溝口重元
Mizoguchi Shigemoto.jpg
溝口重元像(宝光寺蔵)
時代 江戸時代中期
生誕 延宝8年9月23日[1]1680年11月14日
死没 享保3年11月21日1719年1月11日
改名 久三郎(幼名)→宣盛(初名)→重元
戒名 智應道海陽元院
または陽元院殿前伯州大守智應道海大居士
墓所 東京都文京区吉祥寺
官位 従五位下伯耆守
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗
越後新発田藩
氏族 溝口氏
父母 父:溝口重雄、母:三木氏娘・よつ
兄弟 重元市橋直方、外記、逸見元長
女子、よめ、かい、きい、せい、峯、
女子
正室:前田利明娘・佐野
継室:中院通躬娘・誠姫
側室:山崎定右衛門娘・角
男子、直治、まん
テンプレートを表示

生涯編集

4代藩主・溝口重雄の長男として新発田にて誕生した。幼名は久三郎。初め宣盛(のぶもり)と称し、のち重元と改める(将軍世子徳川家宣の「宣」を憚ったため)。

元禄2年(1689年)、5代将軍・徳川綱吉に初御目見する。元禄7年(1694年)、従五位下・伯耆守に叙任する。宝永3年(1706年)、父・重雄の隠居により家督を継ぐ。正徳5年(1715年)には伊藤仁斎の門人である緒方維純を召し抱えて家中の者に講釈をさせ、また同年国元下向の際には甲州流軍学者の川西隆直を召し連れて翌年より家中に稽古を付けさせるなど、学問・武芸の奨励に力を注いだ。

享保3年11月21日1719年1月11日)、江戸において39歳で死去し、跡を次男の直治が継いだ。法号は智應道海陽元院(陽元院殿前伯州大守智應道海大居士とも)[2]。江戸駒込の吉祥寺に葬る。子は2男1女。

系譜編集

  • 父:溝口重雄
  • 母:よつ - 三木氏(三枝氏とも)の娘、智光院
  • 正室:前田佐野 - 前田利明の娘、実相院、死別
  • 継室:誠姫 - まさ、中院通躬の娘
  • 側室:角 - 山崎定右衛門(藩士)の娘、信号院
  • 生母不明の子女
    • 長男: - 早世
    • 長女:まん - 早世

脚注編集

[ヘルプ]
  1. ^ 一部に閏8月23日誕生とする文献(『三百藩藩主大事典』など)もあるが、ここでは新発田藩「御記録」(『新発田市史資料第一巻 新発田藩史料(1)』所収)に拠った。閏8月記載は同「御記録」の誤読に基づく可能性がある。
  2. ^ 一部に陽院とする資料もみられるが誤植と思われる。