滋賀県立草津高等学校

滋賀県草津市にある高等学校

滋賀県立草津高等学校(しがけんりつ くさつこうとうがっこう)は、滋賀県草津市木川町に所在する公立高等学校

滋賀県立草津高等学校
地図北緯35度1分26.0秒 東経135度56分55.5秒 / 北緯35.023889度 東経135.948750度 / 35.023889; 135.948750座標: 北緯35度1分26.0秒 東経135度56分55.5秒 / 北緯35.023889度 東経135.948750度 / 35.023889; 135.948750
過去の名称 滋賀県立栗太農学校
草津町立草津実科高等女学校
滋賀県立草津高等女学校
国公私立の別 公立学校
設置者 滋賀県の旗 滋賀県
学区 全県一学区
併合学校 滋賀県立草津高等女学校
設立年月日 1922年
共学・別学 男女共学
課程 全日制課程
単位制・学年制 学年制
設置学科 普通科
学期 3学期制
学校コード D125220600028 ウィキデータを編集
高校コード 25124A
所在地 525-0051
滋賀県草津市木川町955-1
外部リンク 公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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滋賀県立草津高等学校の位置(滋賀県内)
滋賀県立草津高等学校

設置学科 編集

概要 編集

本校は1922年(大正11年)に栗太農学校、草津実科高等女学校として創立。生徒が学びの成果を社会生活につなげ、多様な人々と協力していく能力を、重視してきた。

かつての全入運動 編集

1962年頃から入学希望者は全員受け入れる「全入運動」を始めた。定員をオーバーしても受け入れる「くるものは拒まず」の姿勢は理想の教育の一つの形態であったが、中学校側から成績不良や素行に問題があり他校の合格が望めない生徒が送り込まれるようになり、次第に学校運営に支障が生じるようになった。やがて校内の教師への暴力事件や喫煙シンナーの乱用が目に余るようになったため、1975年入試の段階で「全入」を断念。11人を不合格とした。1976年の日教組の教研全国集会では、滋賀県内の高校の教諭が「全入運動」が失敗した経緯を報告している[1]

教育目標 編集

「学習指導の充実:主体的学びにより、思考力を育成しつつ実践的学力の向上を実現する。進路目標の実現:将来の夢と目標を育み、より高い進路希望を実現させる。健全な社会性の育成:健全な学校生活を確立し、社会で生きるための自律心と自立心を育む。人権意識の向上:互いの人権を尊重し、多様な人と共生できる健全な人格の形成を目指す。」[2]

校歌 編集

一、
晴るる朝空 匂う雲 さざ波よする 琵琶の湖
ここ緑なす 近江野に 真理の道を 進むべく
今日も歓喜に 胸をどる いざ 立たむ 若きわれら

二、
そよぐ樟の木 光る風 山脈青き 比良比叡
ここうるわしの 友垣に 正義の花を 育つべく
今日も希望に 胸をどる いざ 行かむ 若きわれら

三、
萌ゆる新草 黒き土 たなびく桜 草津川
ここかぐわしの 学び舎に 平和の園を 拓くべく
今日も理想に 胸をどる いざ 求めむ 若きわれら
培ふ 三年の 春と秋
永遠に 尽きせぬ 光あり
栄あれ ああ 草津高等学校

[3]

沿革 編集

  • 1922年(大正11年) - 滋賀県立栗太農学校、草津町立草津実科高等女学校を設立。
  • 1925年(大正14年) - 草津町立草津実科高等女学校を草津町立草津高等女学校と改称。
  • 1939年(昭和14年) - 草津町立草津高等女学校が県立に移管し、滋賀県立草津高等女学校と改称。
  • 1948年(昭和23年) - 学制改革により滋賀県立栗太農学校と滋賀県立草津高等女学校が合併し滋賀県立草津高等学校として開校(農業科・普通科併設)。
  • 1949年(昭和24年) - 滋賀県立瀬田高等学校と統合し、滋賀県立湖南高等学校草津校舎と改称。
  • 1951年(昭和26年) - 統合を解消し、滋賀県立草津高等学校と改称。
  • 1982年(昭和57年) - 現在地に移転[4]する。

部活動 編集

体育部 編集

文化部 編集

著名な出身者 編集

脚注 編集

  1. ^ 全入でも解決せぬ ゆがむ高校進学 中学側の安易な指導批判『朝日新聞』1976年(昭和51年)1月25日朝刊、13版、19面
  2. ^ 滋賀県立草津高等学校 学校概要 2020年7月7日に閲覧
  3. ^ 滋賀県立草津高等学校 校歌 2020年7月7日に閲覧 校歌は教員が共同作曲した。作曲者を載せない
  4. ^ 移転に際し、旧校地は滋賀県立湖南農業高等学校(草津高校農業科の後身)の校地になったが、元々、前身校の栗太農学校から旧校地を使用していた。

関連項目 編集

外部リンク 編集