滝口 新太郎(たきぐち しんたろう、1913年2月13日 - 1971年10月23日)は日本の元俳優男性アナウンサーである[1][2][3]瀧口 新太郎と表記されることもある。本名同じ[1][2]。妻は女優の岡田嘉子である[1][2]

たきぐち しんたろう
瀧口 新太郎
本名 同じ
生年月日 (1913-02-13) 1913年2月13日
没年月日 (1971-10-23) 1971年10月23日(58歳没)
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市芝区(現在の東京都港区
死没地 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 モスクワ
職業俳優男性アナウンサー
ジャンル 新派劇映画時代劇現代劇サイレント映画トーキー
活動期間 1925年 - 1943年
配偶者 岡田嘉子
主な作品
若き日の感激
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来歴・人物 編集

誕生・子役時代 編集

1913年(大正2年)2月13日東京府東京市芝区(現在の東京都港区)に生まれる[1][2]

1925年(大正14年)4月、桜田小学校(現在の港区立御成門小学校)を卒業して井上正夫一座に加入[1][2]。舞台『ラシャメンの父』『己が罪』『酒中日記』等に子役として出演した後、1926年(大正15年)5月に旗揚げした衣笠貞之助監督の新感覚派映画聯盟第一回作品『狂つた一頁』に師匠である井上が主演を務める事になり、滝口も門衛の息子役で映画デビューを果たす[1][2]1927年(昭和2年)9月、井上と共に松竹蒲田撮影所に入社[1][2]1928年(昭和3年)公開の野村芳亭監督映画『道呂久博士』や『富岡先生』など、主に井上の主演映画に多く出演しており、1929年(昭和4年)、井上が退社した後も滝口は引き続き同撮影に留まった。

その後、少年期から青年期へ差し掛かり、子役としては難しい時期となって鳴かず飛ばずであったが、1932年(昭和7年)に公開された五所平之助監督の『マダムと女房』に続くトーキー第二作『若き日の感激』で川崎弘子と共演し、一躍、美少年として売り出す[1][2]。以後も『銀座の柳』『恋の東京』等、五所監督映画に多く出演するようになり、前髪役者の貴重な存在となった。

日活のスターに 編集

1932年(昭和7年)12月、松竹蒲田から日活太秦撮影所時代劇部へ移籍[1][2]し、1933年(昭和8年)公開の辻吉郎監督映画『霧行燈』で大谷日出夫と共演したのを始め、同年の犬塚稔監督映画『長脇差風景』では大河内傳次郎を助演するなど、二枚目俳優として活躍する。また現代劇にも進出し、夏川静江深水藤子市川春代水久保澄子らと共演している。1934年(昭和9年)からは新設の日活多摩川撮影所へ移り、多くの作品で活躍[1]。特に女学生に人気があった。

1935年(昭和10年)、今度は日活京都撮影所へ移り、沢田清岡譲二江川宇礼雄らと共演したあと再び多摩川撮影所に戻り、原節子のデビュー作である田口哲監督映画『ためらふ勿れ若人よ』に主演[1]。特に同年入社した花柳小菊(1921年 - 2011年)とは一般募集で当選した「あこがれコンビ」と名づけられて売り出された。また舞台にも再び進出し、1936年(昭和11年)1月大阪中座の「己が罪」では後に妻となる岡田嘉子(1902年 - 1992年)の子供役を務めている。1937年(昭和12年)頃から脇役を演じる事が次第に多くなるが、1940年(昭和15年)の春原政久監督映画『人情ぐるま』までは、橘公子風見章子等を相手役に主演を務めていた。しかしその後は完全に助演に回り、1942年(昭和17年)からは日活が吸収された大映に移籍し、一時期東宝の映画にも出演していた[1][2]

シベリア抑留・残留 編集

1943年(昭和18年)、伊賀山正徳監督映画『海ゆかば』に出演したのを最後に陸軍に応召され、満州(現在の中国東北部)に駐留。独立歩兵二十四大隊の一等兵となる。1945年(昭和20年)8月、終戦により滝口ら多くの日本兵は、ソ連軍の捕虜となり、シベリアに抑留された[1][2]

釈放後、社会主義の理念に共感したためソ連に残留し、ハバロフスク放送局の日本語アナウンサーとなる[1][2]。この頃、岡田嘉子が1938年(昭和13年)1月に樺太の日ソ国境を超えて岡田の愛人である演出家杉本良吉と共にソ連に亡命し、モスクワ放送日本語課に勤務していることを知り、手紙を送るようになる。1950年(昭和25年)、上司の計らいでモスクワへ転勤させてもらい、岡田、清田彰川越史郎石井次郎らと共に勤務した後、岡田と結婚した[1][2]

結婚後もモスクワ放送で日本語アナウンサーとして活動していたが、1971年(昭和46年)8月15日肝硬変のため入院し、同年10月24日に死去した[1][2]。満58歳没。1972年(昭和47年)11月13日、岡田が滝口の遺骨を持って帰国[1]。滝口は満州で戦死していたと思っていたファンも多く、衝撃を与えたという[1]。葬儀はモスクワ放送によって行われ、遺骨は岡田家の多磨霊園(6-1-7-53)に納められた[1]

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『日本映画俳優全集 男優篇』キネマ旬報社、1979年、330頁。 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『芸能人物事典 明治大正昭和』 日外アソシエーツ、1998年、333頁。
  3. ^ 『日本映画美男俳優 戦前編』 ワイズ出版、2014年。

外部リンク 編集