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プロフィール編集

デビューまで編集

愛知県名古屋市生まれ。立教大学卒業後はスーパーマーケット経営をしていたが、車に興味を持ち箱根などに走りに行くようになる。日本スポーツカークラブ (SCCJ) でジムカーナなどを体験後、本格的なサーキットレースに参戦する。

サーキットデビュー編集

1964年8月16日にロータス・エラン26Rで第3回ナショナル・ストックカー・レース(川口市営自動車競技場)でデビュー。1966年の第3回日本グランプリポルシェ・カレラ6で出場し、プリンス・R380勢を相手に一時トップを走行したが、クラッシュでリタイヤした。

TRO編集

ドライバーとしての活動期間は1968年までと短かったが、1967年秋にプライベートのレーシングチーム「タキ・レーシング・オーガニゼーション」(TRO) を結成。ポルシェローラの市販スポーツプロトタイプを購入し、日産から田中健二郎長谷見昌弘をスカウトして、大メーカーのワークスチームと互角に競い合った。

当時の日本グランプリは、トヨタ・日産・タキの頭文字をとって「TNTの戦い」と言われた。1969年日本GPでは西ドイツからポルシェのワークスチームを招聘して話題を集めた。

タキ・レーシングはドライバーやマシンを広告媒体として活用し、ブリヂストン[1]タミヤなどのスポンサーから活動資金を募った。また、ファンクラブの結成、オフィシャルグッズの販売、ラリーイベント主催などの活動も行い、石原プロモーション製作映画『栄光への5000キロ』の撮影にも協力した。経営者の瀧は1969年に『走れ! レースビジネス』(三栄書房刊)という本を出版している。チームは1973年のオイルショック後に活動を停止した。

日本モータースポーツ界への貢献編集

その後、瀧はファッション業界で縫製工場経営・ブティック経営などを続ける一方、趣味で香港・北京ラリーなどに出場した。また、日本自動車連盟 (JAF) のスポーツ委員やル・マン24時間レースの審査員を務めるなど、日本国内・国外のレース普及に努めた。1995年にはフォーミュラ・ニッポンの運営母体である日本レースプロモーション (JRP) の代表取締役に就任。日本版ミッレミリアを主宰するヴェテランカークラブ東京の会長も務めた。

1998年11月24日午前10時20分、臓器不全のため逝去、享年61[2]

プライベート編集

実家は1864年(元治元年)創業の老舗繊維問屋「瀧定」(現:瀧定名古屋)。当主は代々「定助」を襲名する慣わしだったが、瀧は大学時代に起業家を志し、6代目「定助」を返上して元の進太郎に戻したといういきさつがある[3]

エレクトーン奏者で11PMのカバーガールなども務めた高橋レナと結婚したが、その後離婚。

ドライバーとしての主なレース成績編集

タキ・レーシング・オーガニゼーションの主なレース成績編集

参考文献編集

  • 井出耕也 『むかし、狼が走った サーキットの青春烈伝60's〜70's』 双葉書房、2000年、ISBN 4575290742

脚注編集

  1. ^ 当時、国内のワークスチームはグッドイヤーダンロップなどの外国製レーシングタイヤを使用しており、実戦データが欲しいブリヂストンは密かにタキ・レーシングを支援していた。
  2. ^ "訃報:瀧進太郎氏逝去 ". モータースポーツフォーラム.(1998年11月24日)2013年11月7日閲覧。
  3. ^ 井出、174頁。

関連項目編集