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漢四郡(かんのしぐん)は、朝鮮半島の中・西北部にあった衛氏朝鮮を滅ぼした前漢武帝紀元前108年に設置した楽浪郡真番郡臨屯郡紀元前107年に設置した玄菟郡植民地のことである[1]。各郡の位置については諸説ある。朝鮮四郡(ちょうせんしぐん)ともいう[2]

概要編集

中国王朝は313年までおよそ400年もの間、朝鮮半島中部・北部を郡県により直接支配し、また朝鮮半島南部に対して間接統制を行った。漢四郡に先立って、紀元前128年に漢は蒼海郡を置いたが、紀元前126年に廃止した。漢四郡のうち、真番郡と臨屯郡は早く廃され、玄菟郡は朝鮮半島から西に移ったが、204年には朝鮮半島に新たに帯方郡が置かれた。楽浪郡と帯方郡は313年まで存続した。紀元前107年に設置され、高句麗の攻撃により遼東に撤退した313年までの400年間、平壌の存在した楽浪郡を通じて中国王朝の政治的・文化的影響を朝鮮に与え、また朝鮮も主体的にそれを求め[3]中国文明が朝鮮にもたらされ[4]高句麗の発展は、玄菟郡への服属抵抗が大きな意義を持つという研究があり、楽浪郡・帯方郡の漢人が高句麗王権・百済王権に取り込まれ、高句麗・百済の発展に寄与した[5]

楽浪郡には漢人豪族である王調太守を殺害して「大将軍楽浪太守」を自称したように、郡県統治に抵抗する勢力も発生していた[6]。一方、この王調を殺害した王閎中国語版は八代祖先が山東半島からの移住者であり、この王調や王閎中国語版の他にも王光や王旴などのように楽浪郡治に土着化した漢人勢力一族がいた[6]

楽浪郡と帯方郡の故地には、5世紀まで土着漢人や新移住者の漢人が住み続けた[7]

年表編集

  • 紀元前128年 - 漢が蒼海郡を設置。
  • 紀元前126年 - 漢が蒼海郡を廃止。
  • 紀元前108年 - 漢が、衛氏朝鮮を滅ぼし、漢四郡(楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡)を置く。
  • 紀元前82年 - 真番郡、臨屯郡を廃する。
  • 紀元前75年 - 玄菟郡を西に移し、半島には楽浪郡だけとなる。
  • 204年 - 公孫氏が帯方郡を置く。
  • 238年 - 魏が公孫氏を滅ぼし、帯方郡を支配。
  • 313年 - 高句麗が楽浪郡を滅ぼし、帯方郡も滅びる。

韓国の教科書における漢四郡編集

論点編集

大韓民国教育部の韓国教育開発院が1999年に刊行した『日本・中国の中等学校歴史教科書の韓国関連内容分析』は、日本の教科書『日本史A』に対して、朝鮮史における最初の国家が古朝鮮であるにもかかわらず、朝鮮がはじめて登場するのは漢四郡であること、それは「結果的に朝鮮史の上限を引きずり下ろし、朝鮮の歴史がはじめから中国の支配を受けていたかのように暗示している」と批判している[8]

1981年大韓民国教育部長官安浩相朝鮮語: 안호상1檀君は実在の人物2檀君の領土は中国北京まで存在した3王倹城は中国遼寧省にあった4漢四郡は中国北京にあった5百済は3世紀から7世紀にかけて、北京から上海に至る中国東岸を統治した6新羅の最初の領土は東部満州で、統一新羅国境は北京にあった7百済が日本文化を築いたという「国史教科書の内容是正要求に関する請願書」を国会に提出したこともある[9][10]朝鮮史の歴史的舞台である中国東北から朝鮮半島が、中国大陸と直接的に接している以上、朝鮮史は中国大陸諸情勢の影響を受けるのだが、中国人の朝鮮半島への流入、中国による朝鮮直接支配など、中国による朝鮮史への関与をどう位置づけ、教科書で論述するかは大きな問題だった[11]。漢四郡は漢の郡県であるため、箕子衛満同様に教科書に位置付けるか、ということが問題であったと考えられる[12]

小学『社会』には漢四郡についての記述はない[13]。中学『国史』の図「古朝鮮以後、満州韓半島に登場した諸国」では、高句麗沃沮などの東夷諸族は描かれるが、そこに存在したはずの漢四郡は描かれない[14]。高校『国史』では、漢四郡の記述がみられるが、個別の郡名もなく、24行からなる「衛満の執権」の項目のなかの3行で、郡県は土着民の抵抗により、廃止・撤退されたことを記すのみとなる[15]

漢の郡県が設置された後、抑圧と収奪に直面した土着民はこれを避けて移住したり、団結して漢の郡県に対抗した。漢の郡県は厳しい律令を施行して自らの生命と財産を保護しようとした。 — 国史編纂委員会、国史

2世紀-3世紀の東夷諸国の図「諸国の成長」にも漢四郡が一切描かれないように、きわめて簡略に記述して論述対象から排除され、漢の郡県に対する悪弊を指摘して、敵対的なものとして描かれる[16]

韓国の教科書における漢四郡の変遷編集

漢四郡に関する記述は、従来は楽浪文化とともに記述されてきたが、徐々に減少していき、特に1970年半ば以降極めて少なくなり、郡名や位置図も削除されていく[17]。 

この楽浪(平壌一体)を中心にして在来文化と漢文化が交流していわゆる楽浪文化(楽浪遺跡)が発達して、この文化がわが国の南北諸国に与えた影響も少なくない。 — 震檀学会、国史教本「附」、1946年

1946年震檀学会『国史教本』では本文で触れずに、「附」で記述する。やがて漢四郡は本文に記述され、漢四郡の位置図が掲載され、その変遷、楽浪文化、朝鮮民族への影響が記述される[18]。 

楽浪は後の帯方とともに、東方世界における文化交流の大きな中心点となった。 — 金庠基、高等国史、1957年

漢四郡と帯方郡の位置図が掲載され、出土した銘文塼遺物などが写真付きで紹介され、漢四郡との交流を通して、朝鮮民族は漢の高度な文化を取り入れて、自らの文化を形成したと高く評価される[19]

わが民族をして異民族支配を強いさせたという点で残念な事実であるが、その反面そこから得た影響も小さくない。その影響の第一は政治的に土着種族の台頭をもたらした点である。外民族の支配は土着民を自覚させ、その統治から抜け出すために、部族国家へと発展させ、さらに古代国家形成の原動力となった。また発達した漢の政治体制は、いまだ未開な状態にあったわが国の諸民族の政治的発達に大きな影響を与えた。二番は社会的にも開発された点である。…第三は、文化上において大きな影響を与えた点である。…このように燦爛な楽浪文化は漢人による漢文化にすぎないが、これは当然にわが民族に影響を与え、わが国の文化発達に大きな影響を与えた。 — 歴史教育研究会、高等国史、1967年

この場合看過できないのは、漢四郡によって朝鮮民族と国土の自覚を覚醒したという指摘である[20]。それは、1947年崔南善中学『国史』のようにはやくから明示されてきた[21]

支那本国の進歩な文物と朝鮮本土の豊富な物質が合わさって燦々たる文化を形成した。 — 崔南善、中等国史、1947年

漢四郡が、朝鮮民族の部族国家形成・古代国家形成の原動力となったと評価されるが、漢の朝鮮支配という異民族による朝鮮民族支配とそれに抵抗する観点がみられる[22]

中国の進歩した文化がそのまま入り、楽浪文化が形成された/燦爛な楽浪文化はわが国だけでなく、倭人にも大きな影響を与えた/漢字文化や政治制度、先進文化が国家形成段階突入へ寄与、ただし、純朴な風俗などが失われ、事大思想が芽生えるようになった。 — 曺佐鎬、中等国史、1959年
郡県に対抗する朝鮮人/中国の文化が導入され、朝鮮本土の豊富な物質と融合して燦々たる文化が形成/この時わが国の文化は中国人の文化を受け入れてわが国の文化を形成したが、その反面、次第に固有の美しい風俗が失われた。 — 崔南善、国史、1962年

漢四郡による朝鮮支配や楽浪文化など漢文化によって、朝鮮民族固有の純朴な風俗が損なわれたという指摘が登場し、漢四郡による朝鮮支配と漢文化の流入に対する批判がでてくる[23]

楽浪文化=漢文化/これによって文化発展は阻害された/郡県の設置は社会に大きな影響を与えた/郡県制度の移植/漢の優秀な鉄器文化が流入/経済にも大きな変化を与えた/困窮生活を強いた。 — 高等国史、1969年
楽浪文化/これはわが土着民とは関係ない中国人の文化である/漢郡県の設置は、韓半島の部族社会に政治・経済・社会面に大きな影響を与えた/漢四郡を通して高度で発達した鉄器文化が伝播し、農具などが発達して、生産力が増加して安定した鉄器文化となった。これとあわせて中国の政治制度が輸入され、土着民間に刺激を与え、従前の社会科学組織に対する改変を追求した。 — 高等国史、1970年
楽浪文化/漢文化にすぎず、われわれの文化ではない/他民族による支配は遺憾だが、漢郡県支配が与えた影響は少なくない/漢の文化は高度な文化であったため、漢人の統治によって朝鮮の土着社会に大きな影響を与える/1文化上の意義/2社会生活の発展/3政治上の変化/土着民の自覚をうながし、その支配から脱するための民族運動を誘発/独自的な政治権力の成長/鉄器文化によって部族国家が台頭/このように漢の郡県支配は文化・社会・政治など各方面にわたって非常に大きな影響をあたえ、わが社会を大きく発展させたのである。 — 邊太燮、高等国史、1973年

楽浪文化を紹介するが、あくまでも漢文化であり、朝鮮民族の文化と区別して、漢文化によって朝鮮民族の文化発展が阻害されたという指摘がみえてくる[24]。このような視覚は、1970年前後から登場して[25]、漢四郡や楽浪文化に対する否定的な記述がみられてくる。それは、日韓併合と同様に漢四郡や楽浪文化を朝鮮民族の歴史と文化として位置付けたくないことと関連する[26]。そして1975年文教部『中学国史』以降、従来は数ページにわたり記述されていた漢四郡や楽浪文化の記述は減少していく[27]

民族の粘り強い抵抗によって漢四郡は満州に追い出された/楽浪郡が長い間朝鮮民族を経済的に搾取し、政治的にも部族間の統一を妨害したため、新しい国家は生まれなかった/楽浪の勢力の及ばない地域にのみ、鉄器文化を基盤とする新しい部族国家が登場。 — 文教部、中学国史、1975年

漢四郡の位置図が削除され、漢四郡や楽浪文化に関する記述は半ページ程度になる[28]

漢四郡は交通路に設置/郡県に対して土着勢力に我慢できず、臨屯郡と真番郡は廃止、玄菟郡は遼東方面に撤退/ただ楽浪郡と帯方郡は長く存続した。 — 文教部、中学国史、1975年

「漢四郡の変遷」という項目はあるが、従来では記述されていた漢四郡の朝鮮民族に与えた影響や朝鮮史上の意味は全く記述されない[29]

その後、漢は古朝鮮の一部地域に勢力を伸ばし、朝鮮民族は継続して抗争し、それを追い出すことに成功した。 — 国史編纂委員会、中学国史、1982年

本文でわずか3行になり、従来の教科書の記述や位置図に示されてきた楽浪郡、臨屯郡、真番郡、玄菟郡の郡名もみられなくなり、漢四郡はどこに置かれていたかも全く言及されない[30]。このような漢四郡の矮小化は、漢四郡が設置されていた時代の東夷諸族の分布図に、本来はそこに存在していたはずの漢四郡が描かれていないことに端的に示され、1980年代から漢四郡に関する記述は極めて少なくなってくる[31]

漢は古朝鮮の一部地域に郡県を設置したが、わが民族の反撃を受け、後退した。 — 国史編纂委員会、中学国史、1996年
古朝鮮が滅亡すると、漢は古朝鮮の一部地域に郡県を設置して、支配したが、土着民の強力な抵抗にあった。そのため、その勢力はしだいに弱化していき、ついに高句麗の攻撃によって消滅した(313年)。 — 国史編纂委員会、高等国史、1996年

1990年代以降も漢四郡に関する記述は極めて少ない。漢四郡に関する記述はわずか3行しかなく、郡名すら記述されず、「漢の郡県」項目すら削除され、朝鮮史や朝鮮民族に与えた影響も記述されない[32]

漢四郡否認論編集

概要編集

北朝鮮及び在野の韓国歴史学者は、朝鮮半島には古代から自主独立の国があったとする歴史観を掲げて[33]、漢四郡が朝鮮半島ではなく中国大陸の遼東遼西方面にあったとしている[34][35]李相龍は、漢四郡は「朝鮮」の領土ではなく遼東に位置していたという、申采浩金教献朴殷植と共通の多くの主張を行った[36]

1975年に結成した在野史学朝鮮語版の歴史団体「國史찾기協議會朝鮮語版」は、「檀君神話歴史性を強調しよう」「漢四郡は恥ずべきことだから朝鮮の歴史から除外しよう」と主張し、歴史学界を植民史観朝鮮語版と非難し、歴史学者を攻撃した[37][38]国史編纂委員会は、既存の通説とは異なることから、これらの意見却下したところ、教育部長官を対象に訴訟を起こした[38]。「國史찾기協議會朝鮮語版」は政界を利用し、1981年8月に「國史찾기協議會朝鮮語版」の安浩相朝鮮語版教育部長官は、「檀君と箕子実在の人物」「檀君と箕子の領土は中国北京まで存在した」「王倹城は中国遼寧省にあった」「漢四郡は中国北京にあった」「百済3世紀から7世紀にかけて、北京から上海に至る中国を統治した」「新羅の領土は満州にあり、統一新羅国境は北京にあった」「高句麗百済新羅、特に百済日本の文化を築いた」という「国史教科書の内容是正要求に関する請願書」を国会に提出し[39]公聴会が開かれた[38]李基白朝鮮語版朝鮮語: 이기백西江大学)は、「学問の真理を尊重する立場からすると、『國史찾기協議會朝鮮語版』は深刻な問題を歴史学者に投げかけたと考えています」と述べている[38]。李基東(朝鮮語: 이기동東国大学)は、「1980年代に『歴史教科書波動朝鮮語版』という運動があった。全斗煥政権末期だったが、尹潽善元大統領を総裁に掲げた『國史찾기協議會朝鮮語版』という極右団体が主導し、韓国政府が国史教育審議会というものを作った。私は関与していたからよく知っている。これらは『檀君神話歴史性を強調しよう』『漢四郡は恥ずべきことだから朝鮮の歴史から除外しよう』と主張した。それは間違った主張だ。その時に歴史教科書国定教科書から検定教科書に切り替える付帯意見を付けた。ところが、最近再びその動きが出ている。先日、黄祐呂教育部長官中国東北工程に対処するため、歴史教科書の上古史古代史の比重を強化すると明らかにしたが、それは彼らの論理と同じだ。とても心配だ」と述べている[37]

韓国日報』は、漢四郡=「漢の武帝が紀元前108年、衛氏朝鮮を滅亡させ朝鮮半島に4つの行政区を設置して植民地支配した」というのは日本帝国による植民史学の残滓だとして、日本帝国は、朝鮮総督府直属の「朝鮮史編集会」において植民史学を組織的に拡散させ、朝鮮半島に漢四郡という中国植民地が存在したと強弁することによって独立意志を抹殺しようとしたと報じている。植民史学は解放後、朝鮮では克服されたが欧米では影響力を持っているとして、「誤った見解」を正そうとしているマーク・パイントン博士を紹介している。それによるとパイントン博士は、「漢四郡設置がすなわち朝鮮半島の中国植民地化という植民史学の解釈は朝鮮史を歪曲させたルーツ」であり、漢四郡が朝鮮半島に政治的影響力を行使したとはみられず、「漢四郡は中国の属国や植民地ではない。そのような見解は日本帝国時代の日本学者たちの主張だ。欧米学界はこういう誤った見解で朝鮮史を見ている」として、欧米学界において影響を及ぼしている「他律的な朝鮮古代史」を批判して「自律的で能動的な成長」を強調する必要性を説いている。これについて盧泰敦朝鮮語版朝鮮語: 노태돈ソウル大学)は、「海外の学界にまだ広範囲に影響を及ぼしている日本帝国植民史学により歪曲された朝鮮古代史を正すため、パイントン博士の努力に敬意を表す」とコメントしている[40]

中央日報』は、2012年8月東北アジア歴史財団アメリカ議会調査局に「韓中境界の歴史的変化に対する韓国の見解」という資料を提出したが、そのなかに、紀元前108年に漢の武帝が設置した漢四郡が朝鮮半島の一部地域を統治したという「東北工程と日帝植民史学の核心的な主張」を認める資料を送っていると問題視している。それによると、紀元前3世紀196年黄海道に真番郡が存在した、紀元前108年に漢四郡が朝鮮半島北部に存在したとしているが、ボク・ギデ仁荷大学教授は「地図に基づくと、高麗の首都の開城に楽浪があったということだが、そのような史料や学説に接したことはない」「漢四郡が韓半島にあったという話は、日帝時代に植民史学者が『韓国は他国の属国』としてねつ造した事実」と批判している[41][42]

セヌリ党李相逸議員は、東北アジア歴史財団は周辺国の歴史歪曲に対応する機構だが、国内の学界の視点とは異なる部分が含まれているとして、「米議会の報告書は米国の政策に直接影響を及ぼす重要な資料だが、こうした資料として我々の歴史を歪曲する地図を財団と政府が送ったことは国益を傷つける行動」「誤っている部分を早期に修正する措置を取らなければいけない」と批判している。さらに『中央日報』は、「財団で勤務した関係者は『日帝植民史観などを継承している人たちが内部にいる』と述べた」と報じた[41][42]

東北アジア歴史財団が「楽浪郡の位置を平壌に表記した北東アジア歴史地図を作製したが、世論の指弾を受けた」ため、東北アジア歴史財団主催の「朝鮮古代史の争点」討論会が催された。そこで、ボク・ギデ仁荷大学教授は、「成果物中心の既存の考古学的研究では、移動や貿易の可能性を無視している」ため、「文献記録に見たときに漢四郡が設立された当時の位置は明らかに、現在の中国河北省東北部と遼寧省西南部」であり、「が東に拡張しながら、中国の勢力の最東端にあった楽浪郡が東進した結果、最終的に楽浪郡が平壌に存在したと記録され、日本の学者たちがこの記録を根拠に明らかな目的性を持って平壌に存在したと発表した」と漢四郡は中国河北省東北部と遼寧省西南部に存在したと主張している[43]。パク・ソンヨン仁荷大学教授は、漢の衛氏朝鮮遠征を分析した結果、「当時漢の攻撃目標を平壌であったとみなすのは難しい。王険城が朝鮮半島の平壌に存在しなかったとする主張に説得力がある」とコメントしている[43]。一方、チョン・インソン嶺南大学教授は、平壌付近の楽浪郡遺跡である土城里遺跡の日本植民地時代の発掘過程を検討して、「遺跡発掘の過程で、実際に15点以上の封泥など楽浪郡遺物が出土したのは事実」であり、「ボンニがほとんど本物だという主張は、もっと慎重に検討されなければならない。しかし、発掘と出土状況が明らかな資料において楽浪郡平壌説を支持することが圧倒的だ」と楽浪郡遺跡偽造説を批判している。ジョ・ボプジョン又石大学朝鮮語版教授は、『史記』などの中国史書を検討して、「楽浪郡は、現在の平壌一帯に存在したものと確認することができる」「文献、遺跡など楽浪郡平壌説を否定することは不可能である」と漢四郡否認論を批判している[43]

2015年に漢四郡の位置をめぐり朝鮮半島説と遼東説の討論会が行われた。その席上で遼東説を取るポク・キデ仁荷大学教授は、中国の史書を論拠に「これまでの楽浪郡研究は、文献資料を十分に検討していない状態で、考古学的発掘に依存し過ぎていた。中国の正史に中国史の一部として記録されている楽浪郡の位置は、河北省北部から遼寧省南西部」であるとする。さらに「北東アジアにおいて、歴史は安全保障の始まりであり、漢四郡が朝鮮半島にあったとすると、中国の東北工程に反論し難い」と述べている。同じく遼東説を取るイ・ドギル(ハンガラム歴史文化研究所長)は、「後代の記録や研究よりも、古朝鮮滅亡後の状況を示す当時の記録の方が重要。楽浪郡・帯方郡が存在していた時期に作られた中国古代の史書は、その位置について古代遼東と説明しており、楽浪郡の中心地たる朝鮮県は河北省盧竜県」とする。さらに「中国と歴史戦争を行っている状況で、なぜわざわざ韓国に不利な解釈をするのか分からない」と述べている[44][45]

一方、朝鮮半島説を取る孔錫亀ハンバッ大学教授は、「遼西説の根拠として引用される中国の史書は後代に編纂されたもので、その元祖に当たる『太康地理志』の『楽浪遂城県には碣石山があり、長城が始まる場所(楽浪遂城県有碣石山、長城所起)』という記事は、楽浪郡が高句麗によって朝鮮半島から追い払われ、遼西に僑置した後の状況を説明したもの」であり、遼東説論者の中国の史書の解釈に疑問を呈している。同じく朝鮮半島説を取るユン・ヨング仁川都市公社文化財部長は、「漢四郡の位置は、朝鮮王朝時代後期の時点で既に推定可能なあらゆる論理が提起されており、1920年代-1930年代には黏蟬(ねんてい)県神祠(しんし)碑や帯方太守墓など考古学的発掘や歴史地理学的研究によって一通りの結論が出た。加えて解放後、平壌一帯から数多くの楽浪の遺跡・遺物が出てきており、朝鮮半島北西部への楽浪郡設置は否定し難い」と述べている。遼東説論者の「韓国に不利な解釈をするな」という主張についても、孔錫亀ハンバッ大学教授は「政治的理由で自分に有利な史料だけを選んではならず、合理的に説明すべき」と批判している[46][45]

韓国では漢四郡否認論は継続して提起されている。『ソウル経済新聞』は、楽浪郡は主流学界では朝鮮半島に存在したとなっているが、「遼東に存在したという反論も侮れない」として、イ・ドギル(ハンガラム歴史文化研究所長)の主張を紹介している。イ・ドギル(ハンガラム歴史文化研究所長)は、「植民史観朝鮮語版再登場の歴史的構造」と称するセミナーにおいて、「漢四郡の朝鮮半島存在説は解放後も定説として受け入れた結果」であり「日本帝国は大韓帝国強占直後、中枢院傘下に『朝鮮半島史編纂委員会』を作り、三・一運動後には朝鮮総督府直属で『朝鮮史編修会』を作って植民史観を組織的に伝播した。植民史観朝鮮語版の核心理論は朝鮮史の時間と空間を縮小する二種類の観点に帰結される」ものであり、「日帝は朝鮮史の時間を縮小するために檀君朝鮮を否認し、古朝鮮を朝鮮半島北部に閉じ込め」朝鮮半島に漢四郡が存在して中国の植民地と強弁することにより独立の意志を抹殺させようとしたという。そして、植民史観朝鮮語版1945年8月15日に終結すべきだったが、『朝鮮史編修会』に所属した韓国人学者が解放後に歴史学界の権力を掌握したため、植民史観朝鮮語版を一掃できず、漢四郡が朝鮮半島に存在したことが定説になってしまったという。それによると、「李丙燾朝鮮語版は解放後、朝鮮史学界の泰斗として君臨しながら自分の二人の師匠の植民史観朝鮮語版を朝鮮史の主流理論にした。稲葉岩吉の漢四郡の朝鮮半島存在説を朝鮮古代史の定説に定着させ、津田左右吉の『三国史記』初期記録不信論に従って古朝鮮を国家と認定せず、『三国史記』初期記録を虚偽と決めつけた」という[47]。漢四郡の朝鮮半島存在説は漢四郡が遼東に存在したことを立証する『三国史記』初期の記録を虚偽として朝鮮史を1500年短縮した日本帝国が組織的に宣伝した陰謀であり、「解放68年過ぎたのに、日帝植民主義史観は堂々と主流史学として存在している。解放後、清算されるべきだった植民史観朝鮮語版がそのまま存続している事実は、韓国が領土は解放されても精神はそのまま日帝に従属しているも同然だという事実を語ってくれる」という。イ・ドギル(ハンガラム歴史文化研究所長)は、後代の記録・研究よりも当時の状況を記録している史書が重要だとして、「楽浪郡・帯方郡が存在していた時期に作られた中国古代の史書は、その位置について古代遼東と説明しており、楽浪郡の中心地たる朝鮮県は河北省盧竜県だった」と主張している[47]

ただし漢四郡否認論は、韓国でも厳しく批判する意見があり、『朝鮮日報』は「在野の歴史学界(大学教授でない歴史学者からなる歴史学界)が『楽浪郡は遼河の西側にあり、朝鮮半島北部説は植民史学の名残』と攻撃」しているが、「(大学教授からなる)主流の歴史学界は、平壌一帯に楽浪郡があった」とみていると報道しており、学術誌『歴史批評』2016年春・夏号で、ソウル大学延世大学成均館大学などからなる30代から40代の若手朝鮮史研究者6人が、在野史学界の古代史解釈を批判した論文を取り上げている。若手朝鮮史研究者6人は「在野の歴史学者の主張は歴史的考証もきちんとなされていない状態で、そこに民族主義という名の下、一部の国会議員進歩的知識人が呼応している」として、彼らを「サイバー歴史学」「歴史ファシズム」「いんちき歴史学」と罵倒している。在野の歴史学界は、漢四郡の位置を遼西だとみており、主流の歴史学界の漢四郡の位置は大同江流域だとする学説を、日本帝国時代の朝鮮史編修会編修官だった李丙燾朝鮮語版の植民史観が彼の弟子まで継承されていると批判する。しかし、主流の歴史学界は、在野の歴史学界の漢四郡の位置は遼西とする学説は「偉大な上古史」の幻想を植えつける恐れがあり、在野史学界の「漢四郡の朝鮮半島説=植民史観」という批判に対しては、「漢四郡の朝鮮半島説」は中国の歴史書物、丁若鏞をはじめとする李氏朝鮮の実学者、日本人歴史学者まで長年受け継がれている学説だと反論している[48][49][50][51][52]。論文の共同執筆者の一人である奇庚良(朝鮮語: 기경량ソウル大学)は、似非歴史学の最大の特徴は「閉ざされた歴史学」であり、「似非歴史学は典型的なファシズムだ。知識人に対する不信感を助長し、大衆的扇動に没頭する。知識人と学問的議論も行わない。外国の極右にもよくみられる典型的な姿だ」として、韓国の歴史学界は、楽浪郡は平壌に存在してなくても構わないが、帰納的に推論した結果、平壌に存在したのが妥当であるから支持しているのであり、似非歴史学は「楽浪郡は平壌に存在してはならない」という結論をくだしてから出発しており、「学問の世界では多様な意見が激しく論理の競争を行い、最も論理的なものが生き残り、論理性が劣るものは淘汰される。これが学問の自由競争だ。楽浪郡は遼西に存在したという主張は学問的に淘汰された説であり、それでも主張したければ学界を植民史観朝鮮語版と罵倒しないで、もっと多くの証拠を集めて提示すればよい」と述べている[53]。また、知識人でさえも似非歴史学に同調してしまう理由として、「主流に対する反感が原因のようだ。主流は間違っていると考え、主流を攻撃することに対して好感をもち、似非歴史学の戦略に簡単にひっかかる」と指摘している[53]

イ・ドギル(ハンガラム歴史文化研究所長)は、中国東北工程を研究している目的を「北韓有事の際に軍事介入できる歴史的根拠を用意したのだ」として[54]、「中国は東北工程で満洲はもちろん韓半島北部までを中国史の領土だったと主張している」「その核心論拠は古朝鮮を滅亡させ設置したという漢四郡にある。漢四郡の中心地である楽浪郡が古朝鮮の首都であった平壌地域にあり残り三郡が漢江の北側にあったので漢江北側が古代中国の植民地だという主張」であり[54]、東北工程に対抗するために設置した機関が高句麗研究財団とそれを継承した東北アジア歴史財団であるが、「東北アジア歴史財団の現行HPは『正しい歴史』という項目で『紀元前3世紀から2世紀、準王代の古朝鮮と衛満朝鮮は平壌を首都としており…』と書いている。古朝鮮の王城である平壌に楽浪郡を設置したという中国東北工程の内容と一致する。高句麗研究財団も一時、楽浪郡の位置を平壌だと表わした歴史地図を上げてネチズンの抗議を受けて畳んだことがあった。東北工程に対応しろとして設置した国家研究機関がむしろ東北工程論理に同調する異常現象が進行中」であり、李址麟『古朝鮮研究』(1963年)、文定昌朝鮮語版『古朝鮮史研究』(1969年)、尹乃鉉朝鮮語版『韓国古代史新論』(1986年)、イ・ドギル『古朝鮮は大陸の支配者であった』(2006年)などを通じて漢四郡は韓半島にはなかったという事実を論証した、「にも関わらず国民の税金で運営される国家研究機関らは東北工程に対抗するこういう理論を完全に握りつぶしたまま、漢四郡が韓半島内にあったと言っている」と批判している[54]

2017年4月7日マー・ア・ラゴにおいて、中国習近平総書記国家主席)とアメリカドナルド・トランプ大統領が米中首脳会談を行ったが、その会話の内容をドナルド・トランプ大統領が『ウォール・ストリート・ジャーナル』のインタビューで話し、習近平総書記国家主席)が「朝鮮半島は中国の一部だった」と発言したことを明らかにし、「習近平主席が中国と朝鮮半島の歴史について話した。数千年の歴史と数多くの戦争について。朝鮮は実は中国の一部だった」「朝鮮は実際に中国の一部だった(Korea actually used to be a part of China)」「習主席から中国と韓国の歴史について聞いた。北朝鮮ではなく韓半島全体の話だった。(中国と韓国には) 数千年の歳月の間、多くの戦争があった」「(習主席の歴史講義を)10分間聞いて(北朝鮮問題が)容易ではないことを悟った」と語った[55][56]。これについて『東亜日報』は、「紀元前に漢が韓半島北部に漢四郡を設置した」と報じている[57]

漢四郡否認論は文献的にも考古学的にも問題があり、中国や日本やアメリカの学界では全く認められていない[58][59][60][61][62][63]。例えば、楽浪郡の所在地が現在の平壌の郊外、市街地とは大同江を挟んだ対岸にある楽浪土城(平壌市楽浪区域土城洞)にあったことに異論はない。なぜならば土塁で囲まれた東西700m、南北600mの遺構に当時のさまざまな遺物のほか、官印「楽浪太守章」の封泥(封印の跡)までもが出土しており、考古学的に明らかにされているからである。ただし、南北朝鮮の漢四郡否認論者は、これらの遺跡は後世の捏造だと主張している。

今日、南北朝鮮で楽浪郡が帝国主義の偽造として悪魔化される理由は、これらは植民地時代に日本の歴史学者考古学者によって発見されたからであり、田村実造は「楽浪発掘は1916年以来、ときの朝鮮総督府によって、わが国の考古学者を中心に1945年まで約30年間つづけられた。その結果、漢代や魏・晋時代の中国文化の粋とみられる工芸品とか日用品服飾品などが多数に発見され、古代中国文化の年代づけとか当時の物質文化を具体的に知ることができるようになった」と述べている[64]。その発見によって、漢王朝が平壌付近を統治しており、この中国の郡が朝鮮の文明の発展に大きな影響を与えた事が強調される[65]。北朝鮮が挑戦するまでは、楽浪郡は紀元前108年に古朝鮮を破った後に漢の武帝が確立した郡であったことは「普遍的に認められていた」[66]

北朝鮮の学者は、漢王朝のを扱うにあたり、それらを古朝鮮や高句麗の遺跡として再解釈している[67]。中国の漢に見られる物との否定できない類似性を持つ遺物のために、彼らは、それらが貿易と国際的な接触を通じて導入されたか、または偽造だとし、「決して遺物の朝鮮的特性を否定する根拠として解釈すべきではない」と提唱する[68]。北朝鮮はまた、楽浪は2つあったとし、漢は実は遼東半島遼河の楽浪を治めており、一方、平壌は紀元前3世紀から2世紀まで存在した「独立した朝鮮の国家」楽浪だったと言っている[69][70]。彼らによると、楽浪の伝統的な見方は、中国の中国至上主義者と日本帝国主義者によって拡大された[71]

漢四郡否認論の争点と問題点編集

奇庚良(朝鮮語: 기경량ソウル大学)は、「韓国の歴史学界は楽浪郡の中心地域を平壌とみる楽浪郡平壌説が定説」であり、「史料の無理解によるとんでもない主張をする似非歴史家」は、「自らの無知を客観的に認識することができず、誤りを矯正する考えもない。歴史研究は、史料を正確に把握する専門的訓練と研究対象に対する客観的な態度を備えなければならず、これこそが学問である『歴史学』と学問ではない『似非歴史学』の超えられない決定的な壁だ」と評しており、「似非歴史家の『楽浪郡は平壌に存在しない』という主張をファクトチェックしよう」として、「似非歴史学界の代表格のイ・ドギル(ハンガラム歴史文化研究所長)」の漢四郡否認論の問題点を指摘している[72]

  1. イ・ドギル所長は、「楽浪郡平壌説は、植民地時代に日本人学者が創作した歪曲された歴史認識」「漢四郡の楽浪郡が平壌に存在したことを示す史料は一つもなく、楽浪郡は河北省に存在したという中国史料が数多ある」「楽浪郡平壌説を立証する証拠は全くない」として、韓国の歴史学界を「植民史観朝鮮語版」「親日派」と非難している。これに対して奇庚良(朝鮮語: 기경량ソウル大学)は、「実に衝撃的な発言と言わざるを得ない。…イ・ドギル所長の言葉通りなら、韓国の歴史学界は一つの証拠も確保できていない学説をひたすら『親日』目的のために定説にしていることになる。…結論からいえば、とんでもない主張だ」「楽浪郡平壌説は、植民地時代に日本人学者が突然創作した産物ではない。楽浪郡が平壌に存在したことを証明する数多の史料が存在し、朝鮮の歴史のなかで長期間通説として公認されてきた。李氏朝鮮を代表する学者の丁若鏞地理学に造詣が深かったが、著書『我邦疆域考』において、漢四郡の位置を詳細に論じ、『楽浪郡の位置は平安道黄海道』と明らかにした。高麗時代に編纂された『三国史記』地理志も『平壌城朝鮮語版は楽浪郡』と言及しており、『三国遺事』も同様の認識を示している。この他、楽浪郡の位置を平壌と叙述する史料は枚挙にいとまがない」として、楽浪郡平壌説は、朝鮮の学者が数百年間積み重ねてきた研究成果であるにもかかわらず、似非歴史家は、楽浪郡平壌説は植民地時代に日本人学者によって突然創作されたかのように主張しているが、丁若鏞のような実学者高麗王朝人植民史観朝鮮語版と関係なく、高麗時代から李氏朝鮮を通じて「楽浪郡平壌説」は通説の地位を失ったことはなく、「楽浪郡平壌説=植民史観朝鮮語版」の図式は徹底的にであると批判している[72]
  2. イ・ドギル所長は、「最重要なのは、漢四郡が実際に設置されていた当時に書かれた『一次史料』であり、中国の『一次史料』には『楽浪郡は遼西および遼東に存在した』という記録があり、『漢書』『後漢書』を「一次史料」として列挙している。これに対して奇庚良(朝鮮語: 기경량ソウル大学)は、イ・ドギル所長が「一次史料」と提示している史料は、楽浪郡の設置から数百年後の顔師古李賢が『漢書』『後漢書』に付け足した「注釈」であり、当然「一次史料」ではない。例えるなら、金富軾が著した『三国史記』に現代の歴史学者Aが補足と解説を付け足した『訳注本』があるとして、『訳注本』で現代の歴史学者Aが付け足した補足と解説を「まさに金富軾が書いた叙述だ。後代人が付け足した内容は一つも重要ではない。金富軾本人がどのように書いたかが重要だ」と主張しているのと同じであり、「史料に対する無理解が招いた大惨事である。…史料の本文と後代人が付け足した注釈さえ区別することができず、適当に『一次史料』と主張するのが似非歴史家の研究水準だ」と評している[72]
  3. イ・ドギル所長は、中国の「一次史料」に「楽浪郡は遼西および遼東に存在した」という記録があり、『漢書』『後漢書』を「一次史料」として列挙している。これに対して奇庚良(朝鮮語: 기경량ソウル大学)は、『漢書』『後漢書』の「注釈」は後代人の顔師古李賢が付け足したものであり、「一次史料」ではないが、一部の中国史料には楽浪郡が遼河にあったという記録があるが、313年、楽浪郡は高句麗の攻撃を受け、事実上終焉する。楽浪郡を率いていた張統は自らに従う楽浪郡の住民とともに、遼西および遼東を支配していた慕容廆のもとに亡命した。慕容廆は亡命者のために領土内に新たに「楽浪郡」を設置したが、これらは『資治通鑑』が詳述している。このように本拠を離れた人々を新しい土地に定着させ、かつて居住していた地域名を継承して使用することを「僑置」、設置された行政区域を「僑州」「僑郡」「僑縣」といい、「似非歴史家は、後代の史料を断片的に切り取って、楽浪郡は遼西および遼東に存在したと勘違いしている。中国の歴史僑置に関する知識が全くないために生じた『無知の所産』である」と評している[72]
  4. イ・ドギル所長は、楽浪郡は河北省盧竜県にあったと主張している。これに対して奇庚良(朝鮮語: 기경량ソウル大学)は、楽浪郡存在時の「一次史料」である陳寿が著した『三国志』には、3世紀ころの満州から朝鮮半島にかけて存在した高句麗夫余濊貊沃沮三韓などの地理情報を詳述しており、『後漢書』まで参照すると、より詳細な地理情報が得られ、『三国志』『後漢書』などの当代史料は、三韓は楽浪郡と帯方郡の南側に存在すると記述している[注釈 1][注釈 2][注釈 3][注釈 4][注釈 5]。盧竜県は海辺に位置しており、主張が事実なら楽浪郡南側に存在したと伝える三韓は海上に存在したことになり、「似非歴史家は、楽浪郡を中国大陸に移動させることだけに満足しているが、そう簡単なことではない。楽浪郡を中国大陸に比定した場合、楽浪郡の周囲に存在していた高句麗、濊貊、沃沮、三韓まで同時に移動させなければならず、古代朝鮮半島は空白となり、歴史的空間としての朝鮮半島を抹殺するということだ」と評している[72]

評価編集

  • 矢木毅は、楽浪郡の故地が平壌の対岸に存在したことは、20世紀初頭の考古学上の発掘によって実証されており、平壌に楽浪郡の故地が存在したことは、現在では「常識」になっていると述べている[73]
  • 谷豊信は、楽浪郡は中国の遼寧省方面にあり、平壌周辺の遺跡は郡とは関係のない朝鮮半島固有の人々が残したものとする漢四郡否認論を、「この説には文献的にも考古学的にも疑問がある」と批判する[74]
  • 外交問題評議会のEdgar V. Connorは、漢民族は平壌付近に漢四郡を構築して、漢江と同じくらいはるか南から朝鮮半島を支配したことは史実だとして、「北朝鮮の歴史家が執拗に例示する、楽浪郡が朝鮮を中心としていたことを否定する異なる歴史学は、北朝鮮と韓国だけでなく、両方によって実践される朝鮮のナショナリズムの投影です。古代の朝鮮の歴史に対する中国の影響力の強調から脱するため、彼らは、おそらく北京近く、半島の北西に置きます」と評する[75]
  • アニメ監督宮崎駿は、司馬遼太郎との対談で、司馬が「あそこ(韓国)は事実よりも、ちょっと非事実をまぜることが好きなようですね」「漢の楽浪郡もなかった、玄菟郡もなかったということになっている」「なくなった。これはも同じ考えですよ。むろん良識ある学者はべつですが」という発言に対して、「楽浪郡もなくなってるんですか」と驚いている[76]
  • 森鹿三は、楽浪郡の郡庁所在地は元王都の平壌として、「漢の武帝が朝鮮に置いた楽浪などの四郡は、漢帝国の支配力が弱まるとともにどど勢力範囲も縮小したが、それでも平壌付近の地方はながく確保」しており、313年に、漢の武帝が設置してから420年間中国の東方基地だった楽浪郡が高句麗に駆逐されるまで存在した、と評する[77]
  • 武田幸男は、漢四郡の中心は楽浪郡であり、郡治は平壌市街から大同江をはさんで南岸の楽浪土城洞に比定される朝鮮県に設置され、朝鮮県の名は朝鮮族に由来しており、箕子朝鮮衛氏朝鮮の伝統をふまえた由緒深いものであり、楽浪郡は朝鮮半島の西北部を中心に、朝鮮県を筆頭に18県を擁して紀元4世紀まで存続したとして[78]、「高句麗はそのつどすぐに立ち直り、313年ごろにはかえって楽浪・帯方の両郡を陥し、前漢以来400年ほど続いた中国の朝鮮西北部支配に終止符をうった」と記している[79]
  • 日比野丈夫は、漢の武帝が元封3年に衛氏朝鮮を滅ぼして、満州南部から朝鮮半島北部に漢四郡を設置したとして、「楽浪郡はもとの朝鮮国の都を中心としておかれたもので、中国領土のもっとも東に位置していた。それは中国統治のおよぶ最先端であるとともに、中国文化の前進して行く第一線でもあったのである。武帝のつぎの昭帝始元五年、早くも四郡のうち真番、臨屯の二郡は廃止された。玄菟郡もやがて満州に後退したが、楽浪郡だけはもとの位置を離れず、管下に二五県を擁する大都として続い」ており[80]、このように長期間に亘って存在したのは、漢が国力をあげて維持したからであるが、中国人移住民を除き去ることができないほどこの地方に大量の中国人移住民が集まっていたことが大きく、「楽浪がいまの平壌、臨屯が永興(咸南道)、玄菟がはじめ咸興におかれていたことは明らかだが、真番の位置はなお不明である[80]」「韓の状態はすでにのべたが、、後漢末の動乱期には、中国人の流入するものがしだいに多くなったようだ。やがて遼東公孫氏が独立政権を立てると、楽浪郡の南部から韓の一部にかけて帯方郡がおかれた。その中心は今日のソウル京城)で、韓も倭もこの郡の管轄を受けるようになったといわれる[81]」と評する。
  • 藤永壮は、漢四郡の一つ・楽浪郡は、紀元前108年から紀元303年に、「漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼし、平壌付近に設置」と分析する[82]
  • 田中俊明は、設立当初からそこであったかは異論があるが、ほとんどの時期にそこであったことは確実として、「楽浪郡の郡治は、現在の(平壌)市街地中心部からは、大同江をはさんだ南側のいわゆる楽浪土城」とする。さらに、353年平壌駅前の佟利墓の存在から、平壌一帯は、漢人がひきつづき渡来・居住していたとしている[83]。田中は、北朝鮮の学界では、楽浪郡は当初から朝鮮半島ではなく遼東・遼西に位置していたということが「定説」となっているが、「4世紀以後は別にして、それまでの楽浪郡が、平壌方面にあったことは、漢・代の遺物・遺構の存在からも明らかである(北朝鮮では、それの一部は偽造、一部は楽浪郡とは無関係の楽浪国のものである、と主張している)」と述べ、この「定説」の問題点として、楽浪郡を否認することにより、楽浪郡の設置によって朝鮮半島における社会・政治の発展を促進した面がある事を評価できなくなり、楽浪郡を駆逐した高句麗や韓族の成長を正当に把握することが出来なくなることを挙げている[84]
  • 伊藤英人は、「紀元前108年に楽浪・真番、臨屯郡の三郡が、翌BC107年に玄兎郡が設置され『漢四郡』の時代が始まる。BC82年には真番、臨屯の二郡が廃止され、玄兎郡は二度に亙って西方に移される。AD204年に公孫氏が楽浪郡の南に帯方郡を設置し、238年公孫氏を倒し、楽浪、帯方の二郡を接収する。この後、高句麗が313年、314年に楽浪、帯方の二郡を滅ぼすまで、朝鮮半島中西部、西北部は中国の直轄地である。漢人の東渡は、前述の難民としての移住、平時の移住、郡への赴任などさまざまな理由が考え得るが、最大のそれは交易である。郡の外には、夫餘高句麗沃沮州胡などさまざまな漢化していない原住民と亡命漢人が小集団を成して住んでいるが、彼らと郡との関係は交易と政治の両面の要素を持つ。…314 年の帯方郡滅亡以後、半島と列島の漢人は政治的に本国から切り離される。しかしこの後も半島から列島に漢語話者集団が存在しつづけ、帯方郡滅亡直後の西晋滅亡、その後の五胡十六国の乱を避けて半島と列島に渡来した新来漢人によって上書きされつつ、さまざまな地域的時代的変種を含む漢語話者集団が少なくとも七世紀まで存在した」と述べている[85]
  • 沈仁安北京大学)は、「玄菟郡は前108年に漢の武帝によって置かれた朝鮮四郡の一つで、今の遼東以東地域および朝鮮咸鏡道に位置している[86]」「楽浪郡は、紀元前108年漢の武帝が滅した衛氏の朝鮮に設けた四郡の一つで現在の朝鮮平安黄海道地区にあたる。帯方郡は後漢末、遼東の公孫氏が楽浪郡を分け南部に設置したので、郡域は、現在の朝鮮の黄海道一帯にあたる[87]」「楽浪郡は漢の武帝が設けた四郡の一つで、おおよそ朝鮮半島の北部にある[88]」と述べている。
  • 高久健二は、「楽浪郡遼寧説では、平壌には漢の楽浪郡ではなく、古朝鮮系統の勢力である『楽浪国』が存在していたとする。しかし、遼寧地域で楽浪郡関係の考古資料がまったく発見されていないのに対し、平壌一帯には漢文化の影響を受けた墳墓が多数存在する点からみて、楽浪郡遼寧説は成立し難い」と述べている[89]
  • 桜井紀雄(『産経新聞』ソウル特派員)は、「さかのぼって漢の時代には、朝鮮半島に楽浪郡や帯方郡を置いた」と述べている[90]
  • 豊田隆雄 は、「真藩郡と臨屯郡は、現地諸民族の抵抗もあって20年ほどで消滅、玄菟郡は後に成立する高句麗という国の攻撃を受けて西方に追いやられてしまったが、楽浪郡だけは前漢後漢と中国の王朝が変遷しても変わらずに支配され続けた」「313年に高句麗の攻撃を契機に楽浪郡と帯方郡は遼東方面に移動し、ようやく朝鮮半島から中国領土が消え去った。この間、なんと400年」として、初めて設置された国家は亡命中国人(衛氏朝鮮)によるものであり、その国家滅亡後4世紀も占領が続き、「これでも韓国受難の歴史は始まったばかりだが、彼らの一度抱いた恨みは決して忘れない『』の精神はこうしたなかで育まれた」と評している[91]
  • 李成市 は、「漢の武帝は、紀元前一〇八年に朝鮮王・衛右渠を滅ぼすと、朝鮮半島北部に、楽浪郡をはじめとする四郡を設置した[92]」「紀元前一世紀から紀元後三世紀の間に、楽浪郡が平壌を中心とする北部朝鮮に存続したことは、文字を記した遺物からも、文献の記載と考古資料が対応する点からも証明されることである[93]」と記述している。
  • 野口裕之(『産経新聞』編集委員)は、「2000年前の朝鮮半島北部は漢王朝の支配下であったが、漢王朝崩壊で、朝鮮半島北部~中国東北地方にかけ高句麗王朝が興った」と述べている[94]
  • 浦野起央は、「高句麗は、朝鮮半島とも漢民族の歴史とも関係のない異民族が建国した国家である。それを中国は、高句麗史を中国の地方政権の歴史として、韓国の歴史認識を封じ込めんとした」として、「高句麗が領土としていた朝鮮半島北部地域が中国人が建国した箕子朝鮮衛満朝鮮の故地であり、漢四郡(楽浪郡臨屯郡真番郡玄菟郡)が所在した地域であることから、韓国・北朝鮮が歴史事実による檀君神話をもって建国ナショナリズムの発揚と接合して歴史認識を確認」し、「韓国は、建国神話と歴史事実を混同させつつも、現在の政治イデオロギーを抑え込もうとすることへの対決と走った」と述べており[95]、「平壌近郊至るところに分布する古墳群は、例外なく中国の円頂方台封漢墓と完全に一致している。出土品は、いずれも漢王朝の製造品で、中国朝廷が楽浪郡に派遣した太守の行員や漢人官吏印章封泥)も、多数出土している。北朝鮮史学界は、平壌を中心とする楽浪郡は朝鮮半島には存在せず、中国東北遼河下流域に位置していた、と主張した。これは、任那日本府の所在地を朝鮮半島から日本列島に置き換えた捏造と同じ手法である」として、漢四郡否認論は「南・北朝鮮の歴史学者は、任那日本府の抹殺に走り、任那日本府は、任那に存在した大和国の通商事務所に過ぎないと断定し」、「任那だけでなく、新羅百済高句麗など、日本書紀に記されている諸国も、日本列島内に存在した朝鮮系『分国』とされる分国説を主張しており、これら分国と日本列島内の土着勢力を統御し掠奪するために大和王が列島内に設置した機関としていた」「こうして、中国正史三国志』、『宋書』、『隋書』、『北史』、さらに『三国史記』、『三国遺事』、あるいは金石文史料の『高句麗広開土王碑文』などの任那日本府の記述を、すべて否定した。これに対して、中国延辺大学の善春元は、マルクス主義国家学説に忠実に立脚して挑戦して、北朝鮮史学界は『荒唐無稽』にあると論評した」のと酷似していると述べている[96]
  • 2016年漢陽大学で催された、日本人研究者の植民史観朝鮮語版に関する学術会議において、박찬흥(国会図書館調査官)は、池内宏の漢四郡と高句麗の歴史研究を分析し、池内宏は漢四郡を「小さな中国」として認識し、高句麗は満州民族の一つである濊貊が建国したとみており、漢四郡と高句麗との葛藤は、中国と満州民族間の対立であり、高句麗が漢四郡を駆逐したことを満州民族が中国勢力を駆逐したものと解釈し、さらに、日本任那日本府を通じい百済を後援しながら高句麗やに対抗したと主張しており、「池内宏は古代朝鮮史を中国、満州、日本の大国間の角逐の場とみる『他律性史観』に帰結させ、中国と日本の大国間の対立を浮き彫りにした」と批判した[97]。정준영(ソウル大学)は、今西龍楽浪郡研究を分析し、今西龍の楽浪郡研究は「古代日本と中国の文化交流を説明する朝鮮半島朝鮮人が文化伝播の仲介の役割をしたとみなければならないため、朝鮮半島を通じた文化交流を説明しながらも、日本の主体性を放棄したくないために登場したのが楽浪郡を中心とした漢四郡の研究であった」と分析し、朝鮮半島に漢四郡が存在することで、中国文化が伝播する過程において、朝鮮人を排除することができ[97]、「今西龍は、中国の影響は、単純に外圧にとどまるのではなく、朝鮮内に中国が内面化されたものだと主張し、『中国を取り除ける過程』を『日本民族になる過程』と合理化した」と指摘した[97]
  • 宋鎬晸(朝鮮語: 송호정韓国教員大学)は、「古朝鮮檀君朝鮮は歴史的事実である」と主張している類似歴史学者は、漢四郡の位置を満州に比定していると述べている[98]。 宋鎬晸は、種族の分布や文化圏を政治的領域と解釈するべきではないとし、「琵琶形銅剣」の分布地域は古朝鮮の領域という先入観を捨てねばならず、遼東を越えて古朝鮮の勢力圏を設定することは歴史史料および考古学史料に合致しないと主張している[98]
  • 趙仁成(朝鮮語: 조인성慶熙大学)は、漢四郡の核心の楽浪郡が平壌に位置し、313年高句麗に滅ぼされるまで420年間存続したというのは韓国の歴史学界の通説であり、この学説は植民史観朝鮮語版の学説ではなく、李氏朝鮮実学者である安鼎福朝鮮語版柳得恭朝鮮語版、丁若鏞、韓鎭書韓百謙朝鮮語版なども衛氏朝鮮の王倹城と楽浪郡の位置を平壌に比定していると指摘している[98]
  • 中華人民共和国国営出版社人民出版社が発行している中国の大学歴史教材『世界通史』は、三国時代から高句麗を除外し、三国時代を「新羅百済伽耶」と規定、「武帝は、衛氏朝鮮を滅ぼした後、その領土に郡県制を施行した。辰国が衰弱して分裂後、新羅、百済、伽耶の三国が形成された」と記述、高句麗を「玄菟郡管轄下の中国少数民族であり、紀元前37年の政権樹立後、魏晋南北朝にいたるまで全て中原王朝に隷属した中国少数民族の地方政権」としている[99]
  • 宇山卓栄は、「衛氏朝鮮は紀元前108年、前漢の武帝によって滅ぼされます。これにより、朝鮮半島の大部分が中国王朝の支配下に入ることになります。武帝は征服した地を4つに分け、楽浪郡などの漢四郡を設置し、朝鮮を中国の一部に組み込みます。これが中国王朝の朝鮮支配のはじまりとなります。楽浪郡は平壌に置かれていたと見る説がほぼ確実視されていますが、漢四郡についての史書の記述が乏しく、具体的にどこ を指すのか、その詳細ははっきりとわかっていません。 韓国の学者の一部は漢四郡は遼東(現在の中国遼寧省)に設置されたもので、朝鮮半島に設置されたものではないと主張しています。あくまで、中国の朝鮮支配を否定しようと画策しているのです」「前漢王朝は漢四郡を置き、朝鮮を領土の一部に組み込みました。ただし、それが実質的な支配と言えるかどうかは疑問です。この時代、朝鮮は中国の辺境の果ての地で、人口も少なく、貧弱な生産力しかありませんでした。前漢がこのような荒涼とした地域を、敢えて予算を投じて、統治する必要などなかったでしょう。前漢の武帝は北方のモンゴル人匈奴と戦っていました。北の辺境に、モンゴル人という強大な勢力が存在したことに付随して、各方面の辺境に、異民族の脅威が存在するかどうかという安全保障上の関心が大いにあったと思われます。この関心の上に、楽浪郡などの漢四郡が置かれ、それらが統治機能というよりはむしろ、調査機能を働かせ、辺境の情勢を中央にもたらしていたと考えられます。当時の朝鮮は前漢にとって、植民地にするほどの価値もなかったというのが実情でしょう。後の中国王朝、が朝鮮を隷属させて、徹底的に搾取しますが、前漢時代の朝鮮は原始的で遅れており、搾取すべきものさえなかったのです。その証拠に、武帝の死後早くも、紀元前82年に、真番郡と臨屯郡を廃し、紀元前75年に、玄菟郡を西に移し、朝鮮に楽浪郡だけを残します。つまり、朝鮮が統治するに足りる土地ではなかったということを示しています。そもそも韓国の学者が必死になって、中国の朝鮮支配を否定するまでもない話であったと言えます。中国にとって何の価値もなくても、朝鮮にとって中国との接触は大きな意味がありました。中国の優れた文明が本格的に朝鮮に流入したのは前漢武帝の時代で、特に製鉄技術の流入により、鉄製農工器具を用いるようになり、農業生産が飛躍的に向上しました。 中国から養蚕技術も伝わり、商工業品の流通が次第に社会全体の富を蓄積していき、文明を発展させていきます。生産力の増大とともに、人口が増大し、無数の部族社会が互 いに結合・連合し、小国家を形成していきました」と述べている[100]
  • 小和田泰経は、「衛氏朝鮮は、漢と対立し、B.C.108年、漢の武帝による侵攻を受けることになった。武帝は、征圧した朝鮮半島に、真番・臨屯・楽浪・玄菟という四つの郡を設置して、漢の郡県としている。これがいわゆる『朝鮮四郡』である。『朝鮮四郡』の具体的な位置や範囲は不明だが、楽浪郡は平壌一帯、真番郡は楽浪郡の南、玄菟郡は朝鮮半島北東部、臨屯郡は玄菟郡の南に設置されたらしい。それぞれの郡の下には多くの県がおかれ、漢から派遣される漢人が郡県の長官となった。こうして、朝鮮半島は、中国王朝の統治下に入ることになったのである[101]」「313年10月美川王は楽浪郡を滅ぼし、翌314年には帯方郡をも滅ぼしたのである。楽浪郡と帯方郡の故地は、漢がB.C.108年にいわゆる『朝鮮四郡』を設置してから420年余にわたって、といった中国王朝の支配下にあったが、このとき再び、中国王朝の支配から脱したことになる[102]」と述べている。
  • 宮脇淳子は、「朝鮮半島には始皇帝の時代以降に、まずシナ商人が入ってきていました。そして、次第にシナ文明の商業ネットワークに組み込まれて多くの都市が建設され、入植したシナ人によって先住民がシナ文明の影響を受けるようになっていきます。その後、漢の武帝が朝鮮半島を直轄領にしましたが、武帝の死後は財政的な問題もあってリストラになり、直轄領として4つあった郡を楽浪郡のひとつに縮小したのです[103]」「朝鮮半島で最古の歴史文献は、1145年儒学者金富軾らが完成させた『三国史記』ですが、この書物では紀元前57年新羅が建国されたところから始まっています。『三国史記』ではその後、前37年に高句麗が、前18年に百済が建国されたことになっていますが、史実は高句麗が最も歴史が古く、その次に発展したのが百済で、新羅が開けたのは一番最後なのです。どうして新羅の建国を一番前にもってきたかといえば、金富軾が新羅王家の一族だったからです。それでも金富軾は新羅の名家の出身で、一応まともな学者だったので、シナ史料をそれなりに尊重しつつ書いています。金富軾は可能な限り古い時代に新羅の起源を置こうとしましたが、新羅の建国を前57年として、それ以上遡らなかったのは、前108年に漢の武帝が朝鮮半島を直轄地にした史実を動かせなかったからです。720年に成立した『日本書紀』には、紀元前660年神武天皇が即位したと記されていますが、シナの権力が直接及んだことのない日本列島と違って、シナを意識せざるを得ない朝鮮半島では、これが技術的な限界だったのです。とはいえ、新羅が実際に国の体裁を整えたのは4世紀になってからのことですから、500年はサバを読んでいます[104]」と述べている。
  • 薗田香融は、「高句麗はツングース系夫余族の一支族であるが、紀元前1世紀初に、南下して鴨緑江中流域に拠り、紀元後1世紀末ごろには、強固な部族連合国家を作り上げ、しばしば楽浪・玄菟を犯した。244年から245年の将軍毌丘倹の征討をうけ、大打撃をうけたが、まもなく勢力を回復し、313年には楽浪郡を侵略し、400年にわたる中国の郡県支配に終止符をうった」と評している[105]
  • 布目潮渢山口修は、「それより三百五十年ほど前、すなわち漢の武帝のとき、漢の軍隊は遼東半島をこえて、朝鮮の西北部を征服した。そして楽浪郡や、玄菟郡などをおいた。…しかも後漢の末期、漢の帝国の力がおとろえるにしたがって、東北の地方への統制がゆるんだ。そのすきに乗じて、遼東地方をおさえた公孫氏は、漢の支配からはなれ、独立国のようにふるまうにいたった。東方、いまの鴨緑江の中流域には、高句麗という国ができている。これを、公孫氏はしたがえてしまった。さらに朝鮮半島にも力をのばして、いまの平壌にあった楽浪郡をうばった。また楽浪郡の南部をさいて、あらたに帯方郡をおいた。帯方郡の郡役所は、いまのソウルのちかくに設けられた[106]」「北方の平壌には、漢の時代から楽浪郡がおかれて、半島の支配にあたった。つぎのの時代(三世紀)も、同様である。楽浪郡の南部、いまのソウルの近くには、あらたに帯方郡が設けられた。その支配と統制は、半島の南端にまでおよんだ[107]」と述べている。

漢四郡の変遷編集

脚注編集

  1. ^
    • 中西進・王勇 編 『人物』大修館書店〈日中文化交流史叢書 第10巻〉、1996年10月。ISBN 4-469-13050-8。"前漢武帝が元封三年に朝鮮半島の北部を植民地として楽浪・臨屯・玄菟・真番の四郡を設置。"。 
    • 渡辺延志 (2009年3月19日). “紀元前1世紀の楽浪郡木簡発見”. 朝日新聞. オリジナルの2010年2月17日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100217061317/http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200903190125.html. "楽浪郡は前漢が前108年に設置した植民地" 渡辺延志 (2010年5月29日). “最古級の論語、北朝鮮から 古代墓から出土の竹簡に記述(1/2ページ)”. 朝日新聞. オリジナルの2010年5月30日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100530065652/http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201005280277.html. "中国の前漢が朝鮮半島に置いた植民地・楽浪郡。" 渡辺延志 (2010年5月29日). “最古級の論語、北朝鮮から 古代墓から出土の竹簡に記述(2/2ページ)”. 朝日新聞. オリジナルの2010年6月30日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100603034824/http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201005280277_01.html. "漢字が植民地経営のために、朝鮮半島にまで広がっていた。" 
    • 尾形勇岸本美緒 編 『中国史』山川出版社世界各国史〉、1998年6月1日、83頁。ISBN 978-4634413306。"朝鮮半島では、衛氏の領地を奪って四郡(楽浪、真番、臨屯、玄菟)を設置した。こうして辺境地帯を植民地とすることで、漢の版図は一気に拡大した。"。 
    • 浜田耕策 (2005年6月). “4世紀の日韓関係” (PDF). 日韓歴史共同研究報告書(第1期) (日韓歴史共同研究): p. 55. オリジナルの2015年10月18日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20151018092951/http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/1/1-01-hamada_j.pdf. "高句麗は旧2郡県の土地と民をその支配構造のなかには直ぐさまには編入出来たわけではない。旧郡県には中国人コロニーの性格を濃く持った定着型氏族が根強く残っており、高句麗がこれを統合するには427年に長寿王が平壌に遷都するまでの1世紀近くの過程を必要とするのである。" 
    • 亀井孝大藤時彦山田俊雄 編 『日本語の歴史〈2〉文字とのめぐりあい』平凡社、1976年1月1日、119頁。"前二世紀末、漢の武帝は衛氏朝鮮をほろぼし、楽浪・真番・玄菟・臨屯の四郡をおき、ここに大植民地を建設したが、ここが朝鮮半島におけるシナ文化の前進基地の役割をはたしたことは、疑いないところである。"。 
    • 鏡山猛田村圓澄 編 『古代の日本〈第3〉九州』角川書店、1970年1月1日、138頁。"とくに、朝鮮に置かれた中国の植民地を介しての国際関係がこの時代のひとつの焦点であったのである。そして、楽浪・真番・玄菟・臨屯の四郡を置き、郡をいくつかの県に分けた。"。 
    • 岡崎敬平野邦雄 編 『古代の日本 9 研究資料』角川書店、1971年10月、378頁。"前漢の武帝は、元封二年(前一〇九)、朝鮮半島北部に、楽浪・玄菟・臨屯・真番の四郡をおき、いまだ金属器とともに石器使用の段階にあったこの地に、文字をもち、鉄器に習熟し、国家組織をもつ漢文明の植民地をおいた。"。 
    • 長野正孝 『古代史の謎は「鉄」で解ける 前方後円墳や「倭国大乱」の実像』PHP研究所PHP新書〉、2015年10月15日、15頁。ISBN 978-4569827285。"武帝は朝鮮半島に楽浪と玄菟、真番と臨屯の漢四郡をつくって、漢人の郡太守と県令を送り、植民地政策を始めた。侵略した漢人達は土着の住民達を奴隷のように使って半島の地下に眠る鉄鉱石を掘り出し、燕や衛氏朝鮮の古い製錬・鍛造施設を使い何ら投資することなく鉄生産を始めた。"。 
    • 武光誠 (2008年6月). “古代史最大の謎「邪馬台国」の21世紀的課題”. 月刊現代 (講談社): p. 87. "魏志倭人伝は、朝鮮半島にあった魏の植民地、帯方郡から邪馬台国にいたる道筋を詳しく記している。" 
    • 魚塘 『朝鮮の民俗文化と源流』同成社、1981年1月1日、41頁。ISBN 978-4886210036。"漢の武帝は紀元前一〇八年衛満朝鮮の末王右渠を征服して、衛満朝鮮の故地に植民地というべき漢の四郡を設置した。"。 
    • 全浩天 『古代史にみる朝鮮観』朝鮮青年社、1996年2月1日、383頁。ISBN 978-4885220210。"漢が漢四郡を設置し、植民地支配をはじめるころ、高句麗族は、当代に威名をとどろかした漢帝国にたいする反侵略戦争の過程で真番、玄菟二郡を崩壊させ、国家形成をとげたのであった。これは、まさに凄絶な戦いであったにちがいない。"。 
    • 築島裕博士還暦記念会 『国語学論集―築島裕博士還暦記念』明治書院、1986年3月1日、554頁。ISBN 978-4625420511。"この東方は、漢の東方植民地を指すが、楽浪人の楽浪は、漢の東方植民地の最先端地にあたる、朝群の四郡を指したことも、ここではっきりしてきた。"。 
    • 黄文雄 『日本の植民地の真実』扶桑社、2003年10月31日、385頁。ISBN 978-4594042158。"春秋時代から戦国時代初期にかけての封建体制下では、諸子や功臣の封地は国と称されたが、それとは別の県が、秦帝国以降の郡県制の基礎となった。漢の時代に朝鮮半島北部に設置された四郡など、まさしく漢民族の植民地だった。"。 
    • 武雄市史編纂委員会 『武雄市史』国書刊行会、1981年、184頁。"これらの直轄植民地の四郡には、優れた文化をもった漢民族の官吏や軍隊が派遣され、一般の漢人の移住も行なわれた。"。 
    • 水野祐 『日本民族』至文堂日本歴史新書〉、1963年1月1日、70頁。"朝鮮の楽浪郡以下の植民地は、漢帝国の勢力圏の東の果てで、はるか遠隔の地と思われていた所であった。"。 
    • 義富弘 『しまぬゆ 1 ―1609年、奄美・琉球侵略』南方新社、2007年4月15日、17頁。ISBN 978-4861241086。"倭人が朝鮮半島の漢の植民地楽浪郡に年々往来していたというのである。"。 
    • 河合敦 『早わかり日本史』日本実業出版社、2008年9月30日、105頁。ISBN 978-4534044488。"朝鮮半島にあった漢の植民地・楽浪郡や帯方郡を通じて、中国王朝へ朝貢していたことが記載されている。"。 
    • 武光誠 『「地形」で読み解く世界史の謎』PHP研究所PHP文庫〉、2015年8月5日、195頁。ISBN 978-4569763910。"武帝はこのあと四か所の郡と呼ばれる植民地を設置して朝鮮半島を支配した。このような動きによって、大量の中国人が朝鮮半島に入ってくることになったのである。箕子朝鮮と衛氏朝鮮の都も、武帝の四郡の中で最も有力であった楽浪郡の郡治(郡を治める役所)も、現代のピョンヤンのあたりにあった。"。 
    • 田辺広 『日本国の夜明け―邪馬台国・神武東征・出雲』文芸社、2003年1月1日、13頁。ISBN 978-4835551760。"紀元前一〇八年漢の武帝は北朝鮮を植民地として現在の平壌を中心に楽浪郡を置き後にソウル付近に帯方郡を設けた。"。 
    • 西本昌弘 (1989年). “楽浪・帯方二群の興亡と漢人遺民の行方”. 古代文化 41 (財団法人古代学協会): p. 14. "楽浪郡は漢武帝時代の紀元前108年に、朝鮮半島に設置された漢の植民地。" 
    • 羽原又吉 『日本近代漁業経済史 下卷』岩波書店、1957年9月5日、13頁。ISBN 978-4000017183。"臨屯、真番の植民地四郡をおき、後漢の西暦二〇四年にはさらに帯方郡をおかれた。"。 
    • 影山剛 『漢の武帝』教育社教育社歴史新書〉、1986年1月1日、56頁。ISBN 978-4315403695。"漢はこの地域に新しく帯方郡を設置して植民地経営を開始した。"。 
    • 和島誠一 編 『日本の考古学〈第3〉弥生時代』河出書房新社、1966年1月1日、414頁。"楽浪郡が漢帝国の最東方の漢民族の植民地。"。 
    • 安田元久 『日本史の新研究 : 資料対照』洛陽社、1958年、22頁。"武帝は北朝鮮に楽浪、臨屯、玄菟、真番の四郡を置き、植民地として郡県的支配が行われるようになった。"。 
    • 宮崎市定 『世界の歴史〈7〉大唐帝国』河出書房新社河出文庫〉、1989年9月1日、312頁。ISBN 4309471668。"その中にはかつては中国の植民地であった楽浪、帯方二郡を含み、その都は満州からうつって平壌におかれていた。"。 
    • 田村実造 編 『最後の東洋的社会』中央公論社〈世界の歴史9〉、1961年8月1日、399-400頁。ISBN 4124005792。"ところが漢の武帝は対匈奴作戦の一環として半島の征服を計画し、紀元前108年(元封3年)に大軍をおくって衛氏朝鮮をほろぼし、ここに楽浪郡以下の四郡をおいて植民地とした。楽浪郡はその後313年に高句麗に併合されるまで420年あまり中国の植民地として存続した。…彼らの文化程度は低く、紀元前後ごろなお金石併用期の段階にあったが、楽浪郡などの植民地に朝貢しているうちに、中国文化の影響をうけて、文化もしだいにすすんだ。"。 
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  59. ^ Connor, Edgar V. 『Korea: Current Issues and Historical Background』Nova Science Publishers、2003年、112頁。ISBN 978-1590334430。"They place it northwest of the peninsula, possibly near Beijing, in order to de- emphasize China's influence on ancient Korean history."。 
  60. ^ Hyung, Hyung Il 『Constructing “Korean” Origins』Harvard University Press、2000年、129頁。ISBN 9780674002449https://books.google.com/books?id=QxztLeLoVkQC&pg=PA129&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false。"When material evidence from the Han commandery site excavated during the colonial period began to be reinterpreted by Korean nationalist historians as the first full-fledged "foreign" occupation in Korean history, Lelang's location in the heart of the Korean peninsula became particularly irksome because the finds seemed to verify Japanese colonial theories concerning the dependency of Korean civilization on China."。 
  61. ^ Hyung, Hyung Il 『Constructing “Korean” Origins』Harvard University Press、2000年、128頁。ISBN 9780674002449https://books.google.com/books?id=QxztLeLoVkQC&pg=PA128&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false。"At present, the site of Lelang and surrounding ancient Han Chinese remains are situated in the North Korean capital of Pyongyang. Although North Korean scholars have continued to excavate Han dynasty tombs in the postwar period, they have interpreted them as manifestations of the Kochoson or the Koguryo kingdom."。 
  62. ^ Xu, Stella Yingzi 『That glorious ancient history of our nation』University of California, Los Angeles、2007年、223頁。ISBN 9780549440369https://books.google.com/books?id=YFYVwaS8N58C&pg=PA223&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false。"Lelang Commandery was crucial to understanding the early history of Korea, which lasted from 108 BCE to 313 CE around the P'yongyang area. However, because of its nature as a Han colony and the exceptional attention paid to it by Japanese colonial scholars for making claims of the innate heteronomy of Koreans, post 1945 Korean scholars intentionally avoided the issue of Lelang."。 
  63. ^ Barnes, Gina 『State Formation in Korea』Routledge、2000年、17頁。ISBN 978-0700713233https://books.google.com/books?id=yK8m1XiEKz0C&pg=PA17&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false。"Despite recent suggestions by North Korean scholars that Lelang was not a Chinese commandery, the traditional view will be adhered to here. Lelang was one of four commanderies newly instituted by the Han Dynasty in 108 BC in the former region of Chaoxian. Of these four commanderies, only two (Lelang and Xuantu) survived successive reorganizations; and it seems that even these had their headquarters relocated once or twice."。 
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注釈編集

  1. ^
    高句麗在遼東之東千里、南與朝鮮、濊貊、東與沃沮、北與夫餘接。
    — 三国志、巻三十、東夷伝
  2. ^
    濊南與辰韓、北與高句麗、沃沮接、東窮大海、今朝鮮之東皆其地也。
    — 三国志、巻三十、東夷伝
  3. ^
    韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接、方可四千里。有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。
    — 三国志、巻三十、東夷伝
  4. ^
    韓有三種:一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。馬韓在西、有五十四國、其北與樂浪、南與倭接。
    — 後漢書、巻八十五、東夷伝
  5. ^
    濊北與高句驪、沃沮、南與辰韓接、東穷大海、西至樂浪。濊及沃沮、句驪、本皆朝鮮之地也。
    — 後漢書、巻八十五、東夷伝

参考文献編集

関連項目編集