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北宋初期の供養人像(紀元983年)

漢服(かんぷく/かんふく/ハンフー、簡体字汉服ピンイン:hànfú、注音符号:ㄏㄢˋㄈㄨˊ、閩南語[hànho̍k]またはhanhok広東語[hɔn˧fʊk˨]またはhon3 fuk6)は、漢民族の伝統的な民族服のことで、また漢装(かんそう・中国語:ハンチュアン)とも言う。漢服は漢民族の伝統的な服飾で、黄帝が即位した紀元前2500年ごろから1600年ごろの明の滅亡まで、4100年間の服装・装飾物・礼典体系の総称である。[要出典]また、漢民族が代々着用していた民族衣装の名称としても用いられる。透明で独特な「飄逸感」[1]、長い袖・襟・襦・袴、歩く時のさやさや揺れる感覚が漢服の特徴である。

漢服というのは中国人の観念を服に具現化したものとされ、漢民族の主要な居住地において、『周礼[2]と漢民族古来の「敬天僅命」[3]の思想を基礎に形成された。「華夏―漢(中国を支配した異民族でも、最終的に漢民族に同化される)」という文化を背景とし、また華夏(つまり中国及び漢民族)の儀礼文化を中心とし、自然の変化を通して形成された漢民族の姿と性格を持つ服飾体系である[4]

日本飛鳥時代奈良時代和服聖徳太子大化改新によって、隋王朝唐王朝の漢服の影響を受けた[5]韓国のの韓服も、高麗時代らか朝鮮時代まで中国への朝貢・冊封関係により、元王朝明王朝の漢服を模倣した。

目次

歴史

概略

漢服は紀元前26世紀の黄帝の「衣冠創製・垂衣而治」から始め、17世紀の明王朝の滅びまで、中断も無く4100年間に続いた。[要出典]この間に大きな変化はなかった。東アジアで最も古くから発展した漢字文化圏であり、自ら「中華思想」を掲げてきた中国は、「他所から学ぶ」や「他所の文化の要素を吸収する」ことが日本と比べて少なかった。また、儒教道教天命思想が礼装について規定しているため、変化しづらかったとも言える。

17世紀中葉、満州族が最後の漢民族王朝(明王朝)を倒し清王朝を立てた後「剃髮易服」を実行し、漢民族は満洲服を強制的に着用させられた。満州族は漢民族の装束文化を排除し、漢民族本来の服文化は厳しく禁じられた。

20世紀後半、中国共産党は中華民国を台湾に追放して、中華人民共和国を建立した。共産主義を全国に広まるため、共産党の特徴が濃い人民服を全国に推奨した。

2000年代に、「漢服復興運動」が風起した。

上古

新石器時代

約5000年前の中国の新石器時代仰韶文化の頃に農業と紡績業が始まった。で衣服が作られるようになった。その後、を飼い絹糸を取ることを知るようになり、人々の衣冠服飾も日々整っていった。現代の漢服の主な特徴は、襟があり、襟に続くおくみ(衽)、ボタンを使わず、帯で締めることにある。見るものに、ゆったりとした印象を与える。これらの特徴は、他の民族の服装とは明らかに異なる。漢服には礼服と普段着の区別がある。形については、主に上衣下裳(上は襟のある上着、下は裳というスカート状の下衣、衣裳はここから出来た言葉)、深衣(着丈の長い、裾の広がったゆったりした衣服)、襦裙(短い上着と裳)などの形があった。このうち上衣下裳に冠を被るスタイルは、皇帝や百官が公式な場において着る礼服で、袍服(深衣)は百官、知識人達の普段着、襦裙は女性が好んで着た。一般の下層の人々は短い上着に長いズボンを身につけた。

神話時代

夏朝

殷(商朝)

周朝

春秋戦国時代

秦朝

漢朝

中世

三国時代

魏晋南北朝

魏晋南北朝時代、服装の余風漢。魏晋の名士たちの多くは素裸で寛大衣やコート内は類似今日のキャミソールのような下着を着て、中衣は、この衣式はこの時代に、デザイン参照《北斉校書図》。北方の遊牧民族の影響を受けるかもしれない、中原の男がこの時代もはやっ上着とズボン。ズボンやパンツと互いに。南方の蒸し暑い気候、高い下駄が流行し始め。雑裾(袿衣)は魏晋婦人服の中のドレス。魏晋時代衣冠承は後漢、後漢の追求をとり、贅沢な繁華ナナリーのスタイルで、袿衣の両側には棘のデザイン、魏晋の時に、人々はセントロ家庭、弊履隣をペンダントのリボン。服装のような場で飄々として、それはまだ辞賦中の「華帯飛髾」。

五胡十六国

隋朝

唐朝

五代十国

近古

宋朝

遼朝

元朝

近世

明朝

襖裙

清朝

 
漢服&満州服(清)

清王朝を建てた満洲人は漢民族に満洲服の着用を強制した。この事を「剃髪易服」という。いわゆる「髪を剃って満州族風の辮髪にし、服を満州族風のものに替える」のことである。清朝は、漢人の民族としての連帯感を弱めるため、また中国統一のため、1644年、明朝滅亡後、漢民族に満州族の髪型(辮髪・両把頭)と満州族の服装を強制し、漢民族の服飾を身に着けることを禁止した。史上名高い剃髪易服(髪を剃り、服を替える)である。

これによって、漢服文化は徐々に衰退した。何千年も漢服を着た漢民族に対して、剃髪易服の実行は困難なので、清朝前半は、子供・既婚の女性・役者(京劇昆曲など)・坊主道士だけに漢服の着用を許した。大勢の民間人は明王朝への感情を捨てられなく、漢服の着用を続けた。清中盤の康熙年間に入り、剃髮易服を実行する事に伴い、満洲化教育を受けた漢人の数が急速に拡大した。またその時は経済的な繁栄や平和の時代を迎えて、清王朝を反抗せずに満洲服を普通に受けた人もたくさん出た。一部の江南地方の漢民族意識が強い儒学者以外、漢服を着る人は減っていった。

西洋の学者は「役人の他に漢族の平民は明の服を着た、しかし晚清まで大勢の漢人は自ら満洲の服を着た」と指し示す、清朝の子供や僧侶や道士や婦女も明の服を着た、剃髮易服を実行するのが難しいため清の時代にも大勢の人は明の服を着た、康熙年間も江南の人が明の服を着た。そして辛亥革命の間ある区域明の服を保存した[6][7][8]

近代(清の末期と中華民国の時代)

 
民国道士は「道袍」という漢服を着た

阿片戦争以降、ヨーロッパ列強の侵略により、西洋文化が多く流入する。前述の清の中期である康熙年間で、中国江南地方の人は明の漢服を着る場合が多く見られたが、清朝末期には、漢服を保存した区域は見付からなかった[6][7][8]。清末の辛亥革命により、西洋列強の侵略と支配が中国全土に浸透して、西洋服が急激に流入し始めた。

現代(中華人民共和国の時代)

第二次世界大戦を経て、中国の政権が中華民国から中華人民共和国に移って以降は人民服が推奨され、成人男子のほとんどが着用し、女性にも多く着られた。そして、文化大革命では、「古い文化の完全否定と破壊」が行なわれたため、漢服や他の民族服も禁じられ、人民服が強制された。

21世紀に入り、中国の国力が発展する事と共に、人民は自国の伝統文化に関心を寄せるようになった。

2000年代には中国の経済は発展し、大学教育を受ける若者が増え[9]、「チャイナドレスは漢民族の服装では無い」という認識を持つ人数が急激に増加した。インターネットでは漢服専門の同好会を結成する人々が現れ、「漢服復興運動」と称される動きがみられている。中国社会はこの運動に対し、様々な反応を示している[10]

2010年代においても、漢民族による「漢民族としてのアイデンティティ」を再発見しようとする運動が試みられている[11]。漢民族のアイデンティティを模索し、復古浪漫的な感情から漢服を作り着てみようとする人が増加している[12]。漢民族の伝統的な冠婚葬祭において、漢服を着ることが流行している。晴れやかな舞台で漢服を着用し、また日常的に漢服を着用する好事家も現れている。人民の漢服に魅せる情熱は数千年に及ぶ中国文化への愛と親しみを反映していると考えられる。現在、市場やインターネットで販売されている漢服は漢・唐・宋・明の時代のデザインを主とする伝統的な漢服と、現代中国人の日常生活に適すように実用性とデザインを考慮した改良型の二つのタイプに分けられる[13]

一般的に漢服の着方は前襟を左側に覆う形の「右衽」である[14]。 対して、「左衽」(前襟が右側を覆う形)は漢族の死装束であり、蛮夷(中国人の異民族に対しての呼称)の様式とされている[15]

 
「右衽」、図の6番

朝服

黄帝の時代に冕冠(冠)が使用されるようになり、服飾制度が次第に形成されていた。夏朝商朝以降、冠服制度が確立され、周朝の時に完成された。周朝後期に、政治、経済、思想、文化は急激に変化し、特に百家争鳴で服飾について論議が尽くされ、その影響は諸国の衣冠服飾や風俗習慣にも及んだ。「顔淵、邦を為の事を問う。子曰く:「行夏之時、乘殷之輅、服周之冕。(夏の時を行ない、殷の輅に乗り、周の冕を服す)」それは『輿服志』の事です。孔子曰く:「非禮勿視、非禮勿聽、非禮勿言、非禮勿動。(礼に非ざれば視ること勿かれ、礼に非ざれば聴くこと勿かれ、 礼に非ざれば言うこと勿かれ、礼に非ざれば動くこと勿かれ)」漢服とは、さまざまな『吉礼凶礼軍礼賓礼嘉礼』のなかで規定されている服装や道具などの総称[16]孔子が、伝説の聖王・に衣服を悪しくして美を黻冕について褒め称えている部分である。

すなわち『儀礼』士冠礼・喪服など、また『周礼』天宮司裳神宮司服など、さらに『礼記冠儀昏儀などの各篇に、周朝の服装に関する制度である。『周礼』とは、儒家が重視する経書『十三経』の一つで、『儀礼』『礼記』と共に三礼の一つ。孔子曰く: 「興於詩、立於禮、成於樂。(詩に興り、礼に立ち、楽に成る)」

周礼 分類 男子装束 女子装束
吉礼 天地鬼神の祭祀(邦国の鬼神につかえる) 冕服弁服朱子深衣 翟衣襢衣褖衣
賓礼 外交(邦国に親しむ) 冕服、弁服 細釵礼衣、襢衣
軍礼 出陣・凱旋(邦国を同じくする) 韋弁服皮弁服冠弁服短衣大袴袴褶裲襠円領衫 襢衣、褖衣
凶礼 葬儀・災害救済(邦国の憂いを哀れむ) 弁服、白幘白帢、褖衣 白帢、褖衣
嘉礼 冠婚・饗宴・祝賀(萬民に親しむ) 冕服、弁服、絳公服、朱子深衣 翟衣鞠衣、襢衣、褖衣、大袖連裳青蓮裳

礼服

冠服制度は『礼制』に取り入れられ、「儀礼」の表現形式として中国の衣冠制度はさらに複雑になっていった。衛宏漢旧儀』や応劭漢官儀』をはじめとして、『白虎通義』衣裳篇、『釈名』釈衣服、『独断』巻下、『孔子家語』冠頌、『続漢書輿服志などの中に、漢朝の衣服一般に関する制度が記録されているが、それらはもっぱら公卿百官の車駕や冠冕を中心としたそれである。

易経』に、黄帝··衣裳を垂れて天下治まるは、蓋し諸を乾坤に取る。乾は天、坤は地で、乾坤は天地の間、人の住む所の意がある。『周易』坤卦に「天は玄にして地は黄」とある。天の色は赤黒(玄)く、地の色は黄色く。よって、冕服袞衣)の衣は玄にして裳は黄である。

尚書』にの衣服のぬいとりにした紋様を言う。「"日、月、星辰、山、龍、華虫、宗彝、藻、火、粉米、黼、黻"の"十二紋章"」である。冕服は祭祀や即位や朝賀の儀などに、十二旒冕冠とともに用いられた。中国の冕冠は、古代から明朝まで基本的な形状はほとんど変わらない。明の万暦帝が着用した冕冠が定陵から出土しているが、前漢から隋朝の歴代皇帝を描いた閻立本歴代帝王図巻』に描かれている冕冠とほぼ同じ形状である。翟衣は祭祀や朝賀の儀などに、花釵十二梳とともに用いられた。

皇帝天子、天皇』六服 皇后、天后」六服
裘冕 褘衣
袞冕 褕翟
鷩冕 闕翟
毳冕 鞠衣
絺冕 襢衣
袨冕 褖衣

平服・常服

平服文章

頭の飾物

頭の飾りは漢民族の服飾の重要部分の一つである。古代の漢民族の成年男女は、頭髪を巻きにし、を刺して固定していた。男子は頭に常に冠、布、帽子を載せており、その形は様々であった。女性の髪のは色々な種類があり、髪の上には真珠、花、など色々な飾り物をした。

男子の冠 女子の冠
冕冠   鳳冠  
通天冠   花勝  
皮弁    
礼冠 宝冠  
籠冠  
幞頭  
展角幞頭  
烏紗の帽  
翼善冠  
帕首  
唐巾
朱子巾  
周子巾  
荘子巾  
幅巾  
 
 

周辺国への影響

服制 中国 朝鮮 日本
深衣      
位袍      

朝鮮

朝鮮半島韓服は騎馬民族の衣装である胡服を原型とするが、漢服の影響も受けており、共通する意匠は多い。襦裙チマチョゴリと良く似た構成である。

日本

日本の「朝服」の祖形になった唐の「常服」。平安時代以降、天皇以下の文官武官が朝廷の儀式・公事に着用した。冠位十二階を定めた聖徳太子の時代の服制は定かではない。なお元正天皇養老3年(719年)2月3日、「初令天下百姓右襟」と定められ、それまでの左前(左袵・さじん)が右前(右袵・うじん)となった。このとき同時に官人に把を命じている。礼服は重儀に用いられるもので、後には即位の大礼にのみ用いられ、明治天皇の父孝明天皇の即位までこれが用いられた。和服は唐朝の漢服の影響を受けているとされ、意匠的に漢服に似ている部分は多いが、実際の構造はかなり違う。全体的に見ると漢服の裄丈(通袖)は和服よりも遥かに長く(礼装では250cm程度)、衿と衽の幅も若干広い。それ故、袖を除いてみると漢服は和服のような長方形ではなく、台形に見える。なお、中世以前の和服において、外来の影響はほとんど漢服からのものに限られているが、近世以降の和服は、16世紀に伝わったポルトガルの衣服の影響も受けている。

関連項目

脚注

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  1. ^ 歸去來兮 紐約複賽漢服飄逸宛如夢” (中国語) (2009年9月11日). 2017年12月5日閲覧。
  2. ^ 七夕情人節新人周禮漢服婚禮情定洽川” (中国語) (2017年8月28日). 2017年12月5日閲覧。
  3. ^ 中國古代先民從漢服起源的開始就已經將敬天禮佛的精神信仰” (中国語) (2013年8月3日). 2017年12月5日閲覧。
  4. ^ 漢服のはなし”. 中国文化センター東京. 2017年12月6日閲覧。
  5. ^ 着物の歴史”. 2017年12月12日閲覧。
  6. ^ a b Twitchett, Denis; Fairbank, John K. (2008) Cambridge History of China Volume 9 Part 1 The Ch'ing Empire to 1800, p87-88: "History The term "hanfu" means "dress of the Han people."... '(during Qing dynasty) Han resistance was so severe that the policies were modified. Men, government officials, Confucian scholars, and prostitutes wore the Manchu style; women, errand boys, children, monks, and Taoists were free to wear Han styles. '"
  7. ^ a b 魏千志《明清史概論》,中國社會科學出版社,1998,p358-360
  8. ^ a b Edward J. M. Rhoads (2000). Manchus and Han: Ethnic Relations and Political Power in Late Qing and Early Republican China, 1861–1928. University of Washington Press. pp. 60–. ISBN 978-0-295-98040-9. https://books.google.com/books?id=QiM2pF5PDR8C&pg=PA60#v=onepage&q&f=false. ""However, the dress code was required only of the scholar-official elite and not of the entire male population. Therefore, the great majority of Han men were free to continue to dress as they had during the Ming."" 
  9. ^ 漢服與華夏文明 漢服復興當「撥亂反正」” (中国語) (2015年1月7日). 2017年12月5日閲覧。
  10. ^ 漢服運動:世界華人的節日「漢服節」” (2009年5月5日). 2017年12月12日閲覧。
  11. ^ 穿漢服的年輕人” (2017年11月2日). 2017年12月12日閲覧。
  12. ^ 港頂級時裝設計師支持漢服大賽” (2009年5月5日). 2017年12月12日閲覧。
  13. ^ 漢服のはなし”. 中国文化中心東京時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年12月5日閲覧。
  14. ^ 右衽” (中国語). 2018年6月8日閲覧。
  15. ^ 左衽” (中国語). 2018年6月8日閲覧。
  16. ^ 周礼』<大宗伯篇』

外部リンク