潼関県(どうかん-けん)は、中華人民共和国陝西省渭南市に位置する

中華人民共和国 陝西省 潼関県
潼関古城
潼関古城
潼関古城
渭南市中の潼関県の位置
渭南市中の潼関県の位置
渭南市中の潼関県の位置
簡体字 潼关
繁体字 潼關
拼音 Tóngguān
カタカナ転写 トングァン
国家 中華人民共和国の旗 中華人民共和国
陝西
地級市 渭南市
行政級別
面積
総面積 817 km²
人口
総人口(2004) 16 万人
経済
電話番号 0913
郵便番号 714300
行政区画代碼 610522
公式ウェブサイト http://www.tongguan.gov.cn/

地理

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潼関県は関中平原の東部、秦嶺山脈の北、渭河洛河の南、華山の東に位置し、山西陝西河南の3省を結ぶ交通の要衝であり、古より軍事家による争奪の地となった。潼関は地形険峻にして、長安の東の藩屏であった。

歴史

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殷代は定国に属し桃林と称されていた。周代になると畿内地域とされ渭汭と称された。春秋時代にはに属し桃林塞と称されに対抗する戦略拠点とされた。前453年に属するようになり、前332年に寧秦県が設置された。紀元前205年に雍王章邯上将軍韓信に攻撃されて、籠城するも当地で自害した。

前202年前漢は船司空衙門を設置し、黄河及び渭河の水運を監督するようになり、船司空県と称されるようになった。9年始建国元年)、新朝を立てた王莽により一時船利県と改称されたが、後漢が成立すると船司空県に戻された。213年建安18年)、船司空県は華陰県に編入され、その後三国にかけて沿襲された。534年永熙3年)、北魏により定城県を設置、更に西魏により敷西県に編入され北周に至った。

583年開皇3年)、中国統一を達成した隋代は敷西県を華州(後に京兆郡)の管轄とし、その2年後に華陰県と改称した。唐代になると685年垂拱元年)に仙掌県と一時改称されたが、706年神龍2年)に華陰県と改められ元末まで沿襲された。

明代が成立すると1374年洪武7年)に潼関守禦千戸所を設置、清代になると1724年雍正2年)に潼関県と改称され、その後潼関庁と改称された。

中華民国が成立すると1913年に再び潼関県が設置され現在に沿襲されている。

行政区画

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  • 街道:城関街道
  • 鎮:秦東鎮、太要鎮、桐峪鎮、代字営鎮

外部リンク

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