(わい、拼音: Huì)は、中国の史書である『三国志』や『後漢書』などに記されている古代民族。『漢書武帝紀では、『漢書』食貨志ではと表記される。現在の黒龍江省西部・吉林省西部・遼寧省東部から朝鮮半島北東部にかけて、北西から南東に伸びる帯状に存在したとされる。

紀元前1世紀頃の東夷諸国と濊の位置。

歴史編集

 
2世紀頃の東夷諸国と濊貊の位置。

地域によっていくつかの集団に分けられ、前漢元朔元年(前128年)には武帝は匈奴を討つと同時に、匈奴と連動していた北東部の穢族である薉君の南閭らを攻撃し、濊は28万人を率いて漢王朝に下り遼東郡に服属した。武帝はこの地を蒼海郡としたが、数年で廃止した[1]

武帝は元封3年(前108年)に朝鮮を討伐し、衛満の孫の衛右渠を殺すと、その土地を分けて四つの郡(真番郡臨屯郡楽浪郡玄菟郡)を置き、濊は真番郡や玄菟郡に入ることになる。これらの濊族系が後に扶余族や高句麗などの国を興すことになる。その後には、後漢建武6年(30年)、辺境の郡を整理することから、これら郡においては濊族系の首長が県侯となり、不耐・華麗・沃沮(夫租)の諸県はみな後漢の侯国となって半独立的な動きをしていく。

 その後、濊族系の扶余族と高句麗が旧玄菟郡で勢力を増していく。そのため、建武8年(32年)、扶余族は候から王になっていたが後漢は高句驪侯を高句麗王に昇格させ、旧玄菟郡濊貊は夫余国と高句麗国の二つの王国をもつことになり分権統治が行われていく。他方、朝鮮半島の楽浪郡地域などでは各地に首長が並立し統一国家は作れなかった。その後、正始6年(245年)、楽浪太守劉茂帯方太守の弓遵は、楽浪郡領内の東濊が独立的な動きをしていた高句麗に従属したために軍を起こして討ち、配下の邑落を挙げて降伏し楽浪郡に服属していた。そして、8年(247年)、東濊は魏の宮廷へ朝貢し、改めて不耐濊王の位が授けられたのであるが、名目的なもので、濊王は一般の住民と雑居していて普通の住民のように待遇されて、季節ごとに郡の役所へ朝謁するように楽浪郡の完全な支配下に置かれている。

習俗編集

住居編集

その風俗として山や川が重視され、山や川にはそれぞれに所属するところがあって、みだりに他人の山や川に入りこむことは許されない。病気や死者が出ると、そのたびごとにもとの住家を棄てて、新しい住居を作り直す。

官制編集

大君長はなく、漢代以来、侯邑君,三老といった官があって、下戸(平民)たちを統治している。

服装編集

言葉や風俗はだいたい夫余と同じであるが、衣服に違いがある。男女の上衣はともに曲領(まるくび)のものをつけ、男子は幅数寸の銀製の花文様を結びつけて飾りとする。

結婚編集

同姓の者は結婚しない。

行事編集

10月を天の祭りの月とし、昼夜にわたって酒を飲み歌い舞いを舞う。この行事を「舞天」と呼んでいる。また虎を神として祭る。

刑罰編集

邑落の間で侵犯があったときには、罰として奴隷や牛馬を取り立てることになっている。この制度を「責過」と呼ぶ。人を殺した者は死をもって罪を償わされる。略奪や泥棒は少ない。

産業編集

麻布を産し、を飼って緜(まわた)を作る。「楽浪の檀弓(まゆみの木の弓)」と呼ばれる弓はこの地に産する。海では班魚の皮を産し、陸地には文豹が多く、また果下馬を産出し、漢の桓帝のときこれが献上された[2]

民族・言語編集

中国の史書によると、濊の言語は夫余と同じ[3]と記される。夫余語が現在のどの系統に属すのかについては古くから論争があり、手掛かりがほとんど無く現在に至ってもよく解っていない。

脚注編集

  1. ^ 蒼海郡の廃止は前126年のことで、蒼海郡への道路建設で漢の国内や蒼海郡の人々が反対運動をおこしたので、この郡を廃止した。『史記』平準書・同公孫弘列伝、『漢書』武帝紀・同食貨志第四下
  2. ^ 裴松之の注釈「果下馬はその背丈が三尺。これに乗ったまま果樹の下を通ることができる。それで果下と名付けられたのである。この馬のことは『博物志』や『魏都の賦』に見える。」
  3. ^ 『後漢書東夷伝』『三国志東夷伝』

参考資料編集

関連項目編集