灌仏会
灌仏会(かんぶつえ)は、釈迦の誕生を祝う仏教行事である。日本では原則として毎年4月8日に行われ、一般的には花祭・花祭り・花まつり(はなまつり)と呼ばれている[1]。 降誕会(ごうたんえ)、仏生会(ぶっしょうえ)、浴仏会(よくぶつえ)、龍華会(りゅうげえ)、花会式(はなえしき)の別名もある。
灌仏会 | |
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誕生仏(東大寺) | |
別名 | 花まつり、降誕会、仏生会、浴仏会、龍華会、花会式 |
日付 |
4月8日(日本) 旧暦4月(北伝圏) 8日 印暦2月15日(南伝圏) |
関連祝日 | ウェーサーカ祭 |
日付
編集釈迦が生まれたネパールでは釈迦の誕生日(ブッダジャヤンティ)は5月に行われている。 北伝仏教が伝来した地方では、一般に釈迦の誕生日は中国暦4月8日とされているが、その典拠はない。インドと基本的に同系統の暦を用いる南伝仏教圏では、釈迦の誕生日はインド系太陽太陰暦第2月15日としてウェーサーカ祭で祝う。インド暦2月は中国暦で4月から5月に相当するため、中国暦4月に翻訳されたと考えられている。法顕の仏国記には「建卯」月の8日または1日から15日にかけて、グプタ朝治下のインド各地で祝祭が行われていたとある。中国語で「卯の月」とは春分を含む月であり、タイにおけるソンクラーンなどインド暦の正月祭が起源である可能性もある。
現在は正月など他の伝統行事と同様に、日本とその他の東アジア圏や世界各地の華人社会は日付の慣行が全く異なる。日本ではグレゴリオ暦4月8日や寺院によって月遅れの同5月8日を灌仏会としているのに対し、東アジア圏では中国暦4月8日を灌仏会としている。
起源
編集ネパールおよびインド・西域で行われていた、行道と呼ばれる仏像や仏塔の周りを回りながら恭しく礼拝する供犠や、行像と呼ばれる輿に仏像など信仰対象を載せ、華美な行列を組んで寺の外を練り歩く行事が、中国を経由して日本に入ってきて現在の形になったと考えられる[2]。記録上、国内で最も古い仏生会は奈良県法隆寺の聖霊会(しょうりょうえ)で、行道面と呼ばれる仮面を被った人々に導かれた行列が、仏舎利と聖徳太子像を載せた輿を東院から西院に移し、管弦と舞楽を奉じた後に元に戻す法会だった。
風習
編集灌仏会で執り行う法要が「灌仏会法要」である。
中国では、北魏の『洛陽伽藍記』巻1、長秋寺の条に、境内に三重塔があり、そこには白象に乗った釈迦が空中を飛行する像が荘厳されていた。ここでは毎年4月4日の降誕会に、その像を輿して都中を練行する行事が行なわれていたとある。その行事の際には、さまざまな奇術が演じられ、見物人に死人が出るほどの大盛況の様を呈したという。また、同書同巻の昭儀尼寺の条では、毎年4月7日の降誕会で、当寺の本尊と脇侍の2菩薩ともの三尊像が都中を練行して景明寺に赴き、それを景明寺の三尊が出迎える儀式が挙行されていた。その際の芸能音曲の賑わいは、長秋寺の法会に匹敵するものであったという記述も見られる。さらに、巻3、景明寺の条には、4月7日の昭儀尼寺の練行に続いて、4月8日に、練行の仏像が宮殿の前で皇帝の散華を受け、出し物は最高潮に達し、僧衆や信者が参集したとある[3][4]。
日本では、様々な草花で飾った花御堂(はなみどう)の中で、甘茶を満たした灌仏桶の中央へ安置した誕生仏像に柄杓で甘茶を掛けて祝うが、釈迦生誕時に産湯を使わせるために9つの竜が天から清浄の水を注いだとの伝説に由来[5]する[注 1][6]。8、9世紀当初は寺院、宮中では種々の香料を用いた香湯を使っていたが、鎌倉時代には五香水[注 2]・五色水[注 3]となり、江戸時代に甘茶となった[7]。釈迦を本仏としない日蓮正宗等を除く大多数の寺院で執り行われて参拝者にも甘茶がふるまわれ、甘茶で習字すれば上達するとの願掛け[6]や害虫除けのまじないを作る[8]などする。扱いを誤り使用不能に陥る状況を「お釈迦」とする表現は、炙り過ぎで鈍った金物を「火が強かった=しがつよかった」、「四月八日だ=しがつようかだ」、「釈迦の誕生日=しゃかのたんじょうび」と江戸言葉で訛らせた江戸鍛冶職人の隠語[9]とも巷間される。
花まつり
編集明治時代のグレゴリオ暦導入後、4月8日は関東地方以西で桜が満開する時期である事から浄土真宗の僧侶安藤嶺丸が「花まつり」の呼称を提唱して以来、宗派を問わず灌仏会の代名詞として用いられている。
民間ではこの時期に農事や山野での活動時期を迎え、明治以前から春季到来を祝す飲食や遊興の行事や、東日本では農事を忌む休日、山の神を祀る祭礼、山開きが、西日本では花立て[注 4]、卯月年忌と称される墓参や施餓鬼が、卯月八日として4月8日に行われている。これら祖先神で農事神でもある山の神を祀る際、花が一種の依代として用いられることから、花で神や祖先を祀る民間習俗に仏教行事の灌仏会が習合して「花まつり」になった[11]とする解釈もある。
「花まつり」という言葉自体は、1916年に日比谷公園で安藤嶺丸らが釈迦の誕生日法要をそう称したのが起源とされ[注 5]、そこまで古いものではない。さらに、「まつり」という言葉も仏教行事ではあまり使われず、意外にもその起源はドイツにあるとされる。ドイツ惠光寺(ドイツ惠光日本文化センター)の書庫にある、財団法人国際仏教文化協会『ヨーロッパに広がるお念仏』という書籍によると、「1901年4月、当時ドイツに留学していた近角常観など18名[注 6]が、ベルリンのホテル四季館に集まって誕生仏を花で囲み、仏陀生誕を讃える『Blumen Fest[注 7]』を開催した。会には300人以上のドイツ人が参加して大いに盛り上がり、後にこのニュースが日本に伝えられ、灌仏会を日本でも『花まつり』と呼ぶようになった。」という記述がある。好評だったため翌年もベルリンで開催され、ストラスブルグやサンフランシスコでも同様の企画が立てられたが、結局ベルリン以外では開催されなかった[12]。当時ドイツのストラスブルグにいた渡辺海旭が、1916年の花まつりの実行委員として大きな役割を果たしているところを見ると、これがベルリンの「Blumen Fest」の影響を受けていたことは間違いないとみられる[注 8]。
稚児行列
編集寺院が経営する幼稚園や保育園の園児には甘茶を頂く日として馴染まれ、稚児行列する以下の寺院や仏教系教育機関もある。濃い甘茶には中毒症状が報告されているため、特に乳幼児が飲む場合は、薄めに入れた甘茶を淹れるように留意する[7]。
脚注
編集注釈
編集- ^ 釈迦の生誕を天が祝福し、産湯として甘露の雨を降らせたという説もある。
- ^ 五種の香料を加えた五色の香水
- ^ 青・黄・赤・白・黒の5種の色をした水
- ^ シャクナゲ、ツツジ、卯の花などを竹竿の先に束ねて庭先や木の枝に高く掲げる。
- ^ 当時の記録では、日比谷公園には多くの人々が集まったらしい[12]。
- ^ 当時の参加者の寄せ書きによれば、中心人物は近角であったようだが、他の発起人は美濃部達吉、姉崎正治、芳賀矢一、巖谷小波、倉知鉄吉、藤代禎輔、松本文三郎、松村松年、長岡外史、玉井喜作、津軽英麿、吉田静致、薗田宗恵という錚々たる面々だった[12]。
- ^ ブルーメンフェスト。日本語に訳すと「花まつり」。
- ^ そもそも「Blumen Fest」と名付けた人物が「花まつり」の名付け親とも言えるが、『仏教タイムス』の中で「巌谷小波あたりが命名したのでは」という記事がある。仮にそうなら、僧侶以外が命名したことになる[12]。
出典
編集- ^ 『世界大百科事典』平凡社(2007年)
- ^ 中村保雄『仮面と信仰』新潮社〈新潮選書〉、1993年。ISBN 4106004364。145-146頁
- ^ 「洛陽伽藍記 水経注」p15 1974年(昭和49年)9月1日初版発行 楊衒之著 入矢義高訳 平凡社
- ^ 「魏書釈老志」p184 1990年(平成2年)2月9日初版発行 魏収 塚本善隆訳注 平凡社(東洋文庫版)には、魏書釈老志への引用と、訳注者による解説がある。
- ^ 「年中行事事典」p242 1958年(昭和33年)5月23日初版発行 西角井正慶編 東京堂出版
- ^ a b “花祭りに思う”. 大本山妙心寺. 2024年4月8日閲覧。
- ^ a b “神戸薬科大学薬用植物園レター”. 神戸薬科大学 (2021年6月17日). 2024年4月8日閲覧。
- ^ “第86回 江戸の虫除けと油虫”. 小学館. 2024年4月8日閲覧。
- ^ “2021年度 国府台女子学院中学部 推薦入試基礎学力調査” (PDF). 国府台女子学院中学部 (2021年1月1日). 2024年4月8日閲覧。
- ^ 「ねんとうえ」 - 世界大百科事典 第2版
- ^ 和歌森太郎「卯月八日」『国史大辞典』第2巻、吉川弘文館、1980年、P127
- ^ a b c d “8.「花まつり」の起源はドイツだった!?”. 彼岸寺 (2018年4月8日). 2019年4月9日閲覧。
参考文献
編集- 片茂永「花祭りの創出・軍国調・衰弱」『文明21』第13号,愛知大学,2004年.
- 片茂永『初八日民俗論』民俗苑(ソウル),2002年.
- 片茂永 「仏誕節から見たアジア」『LLニュース』no.33.愛知大学豊橋語学教育研究室,2006年10月.
- 片茂永「日本の花祭と商業主義」『三和寺と国行水陸大斎』2008,三和寺国行水陸大斎学術大会論文集(ソウル),pp.141-168.
- 片茂永「仏誕節からみる中国仏教民俗の伝承と断絶に関する問題」『比較民俗研究』25,2011年.
- 日本民俗大辞典(全2巻、吉川弘文館、ISBN 4642013334、他)下P383-384
- 風俗辞典(東京堂出版、1957-1981年)P589-590