灘尾 弘吉(なだお ひろきち、1899年(明治32年)12月21日 - 1994年(平成6年)1月22日)は、昭和時代の内務厚生官僚政治家衆議院議長(60・61代)、文部大臣(74・75・77・82・83・90代)、厚生大臣(41代)を歴任した。

灘尾 弘吉
なだお ひろきち
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灘尾弘吉
生年月日 1899年12月21日
出生地 日本の旗 日本 広島県大柿村(現江田島市
没年月日 (1994-01-22) 1994年1月22日(94歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京都世田谷区
出身校 東京帝国大学(現・東京大学
前職 内務厚生官僚
所属政党自由党→)
自由民主党
(議長在任期間は無所属)
称号 従二位
勲一等旭日桐花大綬章
衆議院永年在職議員
親族 父・灘尾夫子俟
娘婿・伊部英男

日本の旗 第60-61代 衆議院議長
在任期間 1979年2月1日 - 1980年5月19日

日本の旗 第90代 文部大臣
内閣 第2次佐藤第1次改造内閣
在任期間 1967年11月25日 - 1968年11月30日

日本の旗 第82-83代 文部大臣
内閣 第2次池田第2次改造内閣
第2次池田第3次改造内閣
第3次池田内閣
在任期間 1962年7月18日 - 1964年7月18日

日本の旗 第37代 厚生大臣
内閣 第2次池田第1次改造内閣
在任期間 1961年7月18日 - 1962年7月18日

選挙区 広島県第1区
当選回数 12回
在任期間 1952年10月2日 - 1983年11月27日

その他の職歴
日本の旗 第77代 文部大臣
1958年6月12日 - 1958年12月31日
日本の旗 第74-75代 文部大臣
1956年12月23日 - 1957年7月10日
Flag of Oita Prefecture.svg 官選第33代 大分県知事
1941年1月7日 - 1942年6月15日
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灘尾弘吉銅像

来歴・人物編集

1899年12月21日広島県佐伯郡大柿町(現・江田島市)に生まれる[1]。灘尾家は農業の傍ら、木綿の製造・醤油醸造を営んでいた[2]。父の灘尾夫子俟(なだお ふじまつ)は、早稲田大学の講義録で独学した後、政治に興味を持ち、地元で村会議員町会議員村長を務めた。なお、遠縁に5代目三遊亭圓楽がいる(灘尾弘吉の父方のいとこの妻が、圓楽の母の姉にあたる)[3]

灘尾は、折り紙付きの秀才で、小・中学校では、まれに見る神童と呼ばれ、旧制広島一中、旧制一高東京帝国大学法学部法律学科を首席で卒業した。一高時代には、皇太子裕仁親王の欧州訪問の際、一高校旗の旗手を務め見送りの学生の先頭に立った。

体調不良と関東大震災の影響で高等文官試験を受けそこねてしまったが、当時内務省の人事課長で広島中学の先輩だった佐上信一の計らいにより、面接のみで入省し、その後正式に高文試験の行政科に合格した。内務省には、成績が抜群に優秀でありながらも事情があって高文試験をパスできなかった者のための採用枠が各期に一つずつあり、それをあてがわれたものであった[2][4]

入省後は衛生局調査課に入る。課長は湯沢三千男であり、医務課長であった大達茂雄とも親交を深めた。2年間の見習いののち栃木県庁勤務となり、大塚惟精知事のもとで会計課長兼知事官房主事を務めたが、わずか半年で本省に呼び戻され、社会局の保険部企画課の事務官となり、再び上司となった湯沢のもとで日本で初めての健康保険制度の円滑な運用の任務にあたった。5年後、山崎巌が課長である社会部保護課の事務官に転じ、新たに制定された救護法の運用にあたった[2]

1935年、社会局社会部福利課長に昇進。1937年、同保護課長[2]

その後、内務省から保健行政部門が厚生省として分離したことに伴い、厚生省社会局に移る。福利課長、保護課長など社会福祉関係のポストを歴任し、社会事業法を手掛けた[2]

1938年11月、内務省に呼び戻され、全く畑違いの土木局道路課長となる[2]。このときの部下に細田徳寿後藤田正晴がいる[4]。1939年4月大臣官房会計課長となり、人事課長の町村金五・文書課長の古井喜実とともに「三羽がらす」と呼ばれた[2]。1940年には『社会事業行政』(常磐書房)を刊行。[5]

1941年、当時最年少の43歳で大分県知事(官選)となる。翌1942年に厚生省に戻り、厚生省生活局長、衛生局長。1944年に内務省地方局長[2]

1945年4月、鈴木貫太郎内閣の発足とともに内務次官に就き、地方総監府の設置などを行った。終戦後、東久邇宮内閣発足に伴い慣例に沿って依願免官し、浪人となる[2]

灘尾は郷里広島に一度戻ったが再度上京。中川望の後任として日本赤十字社の副社長となる話も持ち上がったが、GHQによる旧内務省に対する制裁的措置が進行する中において頓挫。さらに1947年11月に公職追放となる[2]。灘尾は社会福祉関係を渡り歩き、警察・治安関係とは無関係であったことから、周囲からGHQに追放解除申請をするよう勧められたが、灘尾は、解除したければGHQがするべきだと筋論を通した。

1951年8月に追放が解除され、周囲に推されて1952年10月の第25回衆議院議員総選挙に立候補した。内務次官経験者ではあったが、地元ではそれ程知名度もなく、組織票も無い上、演説も訥弁で声も小さく、地元の利益など一切口にしなかったが、かえって誠実であるということで2位当選を果たした(当選同期に福田赳夫大平正芳黒金泰美内田常雄丹羽喬四郎宇都宮徳馬植木庚子郎加藤精三山崎巌今松治郎重政誠之町村金五古井喜実など)。当選後、内務次官時代から面識のあった自由党緒方竹虎率いる緒方派に所属し、緒方亡き後は石井光次郎石井派に所属する。

1956年自由民主党総裁選挙の結果、石橋内閣が成立すると、灘尾は文部大臣に就任。以後、灘尾は池田勇人内閣での厚生大臣(1期)を挟み計6期文部大臣に就任し、「文部大臣は灘尾」と呼ばれることになる。

石橋内閣では、最初に日教組対策に直面し、小林武日教組委員長と会談、対話の端緒を開いた。しかし、第2次岸信介内閣で文部大臣として入閣すると、日教組とは勤務評定をめぐり激しい対決に終始する。岸内閣が警職法改正案で国会が紛糾した際に池田勇人、三木武夫とともに閣僚辞任した。池田内閣では厚生大臣に任命され、厚生省と日本医師会が保健医療費値上げ問題で対立していたのを医療問題懇談会を設置して話し合いの場を設け、厚生省の現業部局として増大する社会保険業務を捌くことと、業務部門と監督部門を分けるため社会保険庁を設置した[6]。また医学界の最高権威を幹部にすることで優れた研究者を集めるようにし、それまでと違った病院スタイルを打ち出そうと国立がんセンターを設置した[6][7]。「センター」という言葉は、灘尾が内務省の若手のとき、欧米の資料を翻訳するに当たり、訳語を作らず、そのまま「センター」として使ったのが始まりで[6]、漢字、平仮名、片仮名の混ざった看板を書く灘尾には感慨があった[6]。「センター」という言葉はここから広く使われるようになった[6][7]1966年の自民党総裁選挙では、立候補もしていない灘尾に対して11票も票が入ったが、当時、黒い霧事件の中で、一服の清涼剤のごとき印象を政界の内外に与えた(灘尾は「自分も入れていれば12票だった」とコメント)。なお、当時の自民党総裁選の規定では、立候補していない議員への票も有効票に数えられており、党史でも灘尾への票が記録されている。第2次佐藤栄作内閣で文部大臣に起用され大学紛争に対応した。デモ隊は灘尾邸にもおしかけたが、あまりの陋屋のため戦意喪失、退却を余儀なくされたというエピソードもある。1976年石井派解消とともに無派閥となる。

もともと親台湾派であった灘尾は、1972年日中国交正常化とそれに伴う台湾(中華民国)との断交に際し、翌1973年に台湾との交流を支援する議員連盟として日華議員懇談会の発足にあたり会長となった。灘尾には中華人民共和国からの招請も度々あったが、台湾側に義理を立てて一度も訪中していない。灘尾らの努力もあって、日台の経済・文化・人的交流関係は国交断絶後も維持された[8]

1974年三木内閣で自民党副総裁の椎名悦三郎の推薦で、党三役のひとつ自民党総務会長に就任。椎名とともに宏池会会長の座を追われた前尾繁三郎と交友を続け、毎月一回行った3人の会合は「三賢人の会」と呼ばれた。灘尾は無派閥であったものの、派閥を超えた政策勉強会「金曜会」を主宰しており、党内に影響力をもつ人物同士の会合となった「3賢人の会」は次第に政局の節目で注目を集めるようになった[8]

田中金脈問題田中角栄が首相を退陣し、さらにロッキード事件の表面化による自民党の危機に対し、自民党の近代化を以前から主張していた椎名が三木と灘尾が協力することによって自民党改革を実行しようと企図したものであったが、椎名の目からは、三木は党改革には消極的であり、福田赳夫大平正芳らの挙党体制連絡協議会(挙党協)の「三木おろし」に椎名が加担することとなった。1976年9月の党役員改選、内閣改造によって総務会長を辞任した。

1979年10月7日第35回衆議院議員総選挙の結果、自民党は大敗した前回の衆議院選挙よりも議席を減らし、大平首相の進退をめぐっていわゆる「四十日抗争」が勃発するが、その過程で福田赳夫は大平に対し、誰にも反発されることのない公平無私な人物として灘尾の名を後継総裁候補に挙げている。

総選挙に先立ち、保利茂議長の病気辞任に伴って1979年2月1日第60代衆議院議長に就任しており、総選挙後も引き続き第61代衆議院議長を務めた(戸川猪佐武小説吉田学校」によると、灘尾を議長留任とすることで大平退陣・灘尾暫定政権の目を封じたい主流派の意向もあったという)。議長としては、1980年大角主流派に反発する福田・三木・中曽根康弘反主流派が野党の提出した大平内閣不信任案に同調する動きを見せ政局は緊迫の度合いを強くしていた。その中、反主流派は不信任案に同調するか否かをめぐり混乱し、そのため、当初、午後3時開会の衆議院本会議を5時まで灘尾は延長する。しかし、反主流派は結論に達せず再延長を灘尾に申し込んだが、灘尾はこれを国会を軽視するものと拒否し開会を宣言し、大平内閣不信任案は可決された。その後、衆議院議長応接室において解散となり、初の衆参同日選挙に突入する(ハプニング解散)。1982年勲一等旭日桐花大綬章を受章した。

1983年政界を引退する(旧広島1区の地盤は粟屋敏信が引き継ぐ)が、引退後の晩年も全国社会福祉協議会会長、障害者団体としては国内最大の組織規模を有する日本身体障害者団体連合会の会長などの社会福祉事業に務めた。1989年3月長年連れ添った愛妻である敏子が、事故で亡くなった際は、灘尾は激しい悲しみに襲われ人目をはばからず嗚咽したという。1994年1月22日に東京都世田谷区の自宅にて94歳で死去した。

関連書籍編集

  • 城山三郎 (1990). 賢人たちの世. 文藝春秋. ISBN 4163121609 文春文庫ほかで再刊。
  • 中国新聞社編、高多清在 「灘尾弘吉」 広島県、1991年
  • 「灘尾弘吉先生と語る」 草柳大蔵聞き書き、全国社会福祉協議会、1994年

脚注編集

[脚注の使い方]
  1. ^ “終戦時の内務次官、公職追放に 「群雀中の一鶴」灘尾弘吉(1)政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕”. 日本経済新聞. (2012年1月8日). https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK2001R_W1A221C1000000/ 2020年2月28日閲覧。 
  2. ^ a b c d e f g h i j 安藤俊裕 (2012年1月8日). “終戦時の内務次官、公職追放に”. 日本経済新聞 電子版. 2019年12月25日閲覧。
  3. ^ 『女性自身』1981年5月14日・21日合併号。
  4. ^ a b 後藤田正晴 (1996-6-24). 情と理 - 後藤田正晴回顧録<上>. 講談社. pp. 38-39 
  5. ^ 没後の1995年に「戦前期社会事業基本文献集7」日本図書センターで復刻版刊行。解説寺脇隆夫
  6. ^ a b c d e 城山, pp. 102–103.
  7. ^ a b 機関誌「加仁」 - 公益財団法人 がん研究振興財団 第17号 (1982年発行) 、8–14頁。
  8. ^ a b 川島派を継承、自民党副総裁に”. 日本経済新聞 電子版 (2012年9月2日). 2020年3月7日閲覧。

関連項目編集

議会
先代:
保利茂
  衆議院議長
第60・61代:1979年 - 1980年
次代:
福田一
公職
先代:
剱木亨弘
荒木万寿夫
松永東
清瀬一郎
  文部大臣
第90代:1967年 - 1968年
第82・83代:1962年 - 1964年
第77代:1958年
第74・75代:1956年 - 1957年
次代:
坂田道太
愛知揆一
橋本龍伍
松永東
先代:
古井喜実
  厚生大臣
第37代:1961年 - 1962年
次代:
西村英一
先代:
山崎巌
  内務次官
第50代:1945年
次代:
古井喜実
名誉職
先代:
西村英一
最年長衆議院議員
1980年 - 1983年
次代:
三池信
党職
先代:
鈴木善幸
自由民主党総務会長
第18代:1974年 - 1976年
次代:
松野頼三