無量光寺 (相模原市)

無量光寺(むりょうこうじ)は、神奈川県相模原市南区当麻にある仏教寺院時宗の旧大本山

無量光寺

無量光寺

所在地 神奈川県相模原市南区当麻578番地
位置 北緯35度31分43.7秒 東経139度21分57.7秒 / 北緯35.528806度 東経139.366028度 / 35.528806; 139.366028座標: 北緯35度31分43.7秒 東経139度21分57.7秒 / 北緯35.528806度 東経139.366028度 / 35.528806; 139.366028
山号 当麻山[1]
院号 金光院
当麻道場[1]
宗旨 時宗[1]
宗派 時宗当麻派
寺格 旧本寺(当麻派)、旧大本山(時宗)
本尊 木造一遍立像
創建年 弘長元年(1261年[1]
開山 一遍[1]
正式名 当麻山金光院無量光寺 当麻道場
歴史的・非略体當麻山金光院無量光寺 當麻道場
別称 当麻山
当麻道場
当麻無量光寺
文化財 「無量光寺文書」
公式サイト 時宗 当麻山 無量光寺|神奈川県相模原市
法人番号 3021005002778 ウィキデータを編集
無量光寺 (相模原市)の位置(神奈川県内)
無量光寺 (相模原市)
無量光寺 (相模原市)の位置(日本内)
無量光寺 (相模原市)
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概略編集

山号は当麻山、院号は金光院、道場号は当麻道場。当麻無量光寺とよばれる。地元民は山号でよぶことが多い。

時宗当麻派の本寺であった。

沿革編集

寺伝によれば、弘長元年(1261年一遍により草庵が設けられたのが始まりであるという。実際にはその高弟である他阿真教嘉元元年(1303年)2月に遊行を終えて止住するために念仏道場を開いたのが起源であろう。『遊行上人縁起絵』は当寺の歳末別時念仏で場面が終わる。文保3年(1319年)に真教が亡くなると、初期時衆教団聖地となり、参詣者が引きも切らなかったことが他阿呑海の法語に遺っている。

2世他阿真教の後を承けた3世他阿智得が亡くなると、真教の弟子、有阿恵永(後の呑海)が当麻に入ろうとする。しかし執権北条高時の支持を得た智得の弟子内阿(他阿真光)がすでに相続しており、果たせなかった。そこで呑海は鎌倉郡俣野領内の藤沢にあった廃寺だった極楽寺を清浄光院として再興、清浄光寺として現在に至る。時宗の主流派「遊行派」の誕生である。

元弘3年(1333年)に真光が没し、その直後に鎌倉幕府が滅亡した。鎌倉幕府からの帰依を受けた無量光寺はこれにより一時衰退した。

戦国時代に、清浄光寺が三浦道寸と通じて反後北条氏の態度をとったため永正10年(1513年)に兵火に遭って焼失し再興できなかったが、清浄光寺と対抗関係にあった無量光寺は歴代後北条氏の保護を受け、南関東を中心に勢力を誇った。しかし天正18年(1590年)に後北条氏が滅亡し、たび重なる火災のために、再び不振となった[2]

時宗十二派史観では当麻道場の法流は「当麻派」とよばれる。ただし近世史料上では、当麻派も「遊行派」を称することがあった。相模武蔵下総末寺を有し、千葉氏後北条氏などの帰依があった。「無量光寺文書」は後北条氏との深い関係を示している。当麻派の長は当寺住持で「当麻上人」といい、真教以来「他阿」の本名字を相承している(無量光寺の正統性を認めなかった清浄光寺も同様)。当寺内および末寺から輪番で登位した。隠居すると「前他阿」と号した。現在第68代。

中世から特に近世において、浄土宗(鎮西派)の寓宗となり、法式および人脈は浄土宗に依拠した。当麻上人は浄土宗寺院から入ることが多くなった。歴代が浄土宗の蓮社号・誉号を持っていた。近世に入ると幕府の命により、末寺である法台寺(埼玉県新座市)・来迎寺(千葉県千葉市)は浄土宗に転宗している。これは法台寺出身の観智国師慈昌が芝増上寺住持として徳川家康の帰依を受けた関係からであろう。

近世に当麻上人が周辺諸国を遊行していたことが地方文書に遺されている。それは遊行派が伝馬朱印状を有して大々的に行っていたこととは対照的に、大変こぢんまりとしたものであった。

明治期になり遊行派との別立を企図するが、『皇国地誌』によれば、遊行派が一貫して遊行を行っていたことからその優位性を認め、時宗への残留を容認した(とされている)。時宗大本山に指定され、寺法を有した(現在寺格、寺法は廃止)。

浄土宗の高僧山崎弁栄大正7年(1918年)7月、61世住職に迎えられ、事実上の中興の祖となる。その徒弟養成のための学校庫裡に設けられ、後に境内地に建てられた。学校法人光明学園相模原高等学校の起源である[3]

その他編集

史料集に元禄4年(1691年)3月、当寺35世他阿是名による『麻山集』などがある。アンチ遊行派の立場に立ち、ユニークな記述も多い。

賦算権を保持していたため、念仏札の形木が遺っている。その札は正月などに配られていたが、いつしか行われなくなった。

一遍が流罪途上の日蓮を慰問して邂逅したという逸話に基づき、相模川対岸の日蓮宗妙伝寺厚木市上依知)と交流があり、妙伝寺の御会式に出席したり、当寺の開山忌に招いていたという。

在堪が終わる清浄光寺の学侶に当寺の榧(かや)の木から搾ったで揚げた精進料理を振る舞うしきたりがあった。現在は油を絞る工場が廃絶してしまったことからそのようなしきたりはなくなり、学侶は年度末の二祖忌に参拝に訪れるだけである。

法名は阿号ではなく阿弥号である。

当寺の有力檀徒である関山氏は「当麻三人衆」のうちであり、中世土豪の家柄。一遍の出自である河野氏の一族と伝えている。1999年神奈川県知事選挙に出馬した関山泰雄はその末裔である。

文化財編集

境内とその周辺編集

 
山門
境内は市指定史跡および「かながわの景勝50選」に選定されている[7]
  • 本堂 - 明治26年1893年)の大火で本堂が焼失し、正式なものは再建されていない。本堂跡地に一遍銅像が建ち、脇に仮本堂がある。
  • 歴代廟所 - 一遍、他阿真教および歴代当麻上人の墓塔。一遍の遺骨は真光寺からの分骨という。律宗に倣った造塔が窺える。
  • 熊野権現
  • 東権現 - 末寺であった東沢寺から移したもの。
  • 御影の池 - 一遍が水面に映った己の姿を刻んだのが本尊という。
  • 御髪塚(おはつづか) - 徳川家の遠祖ゆかりのもの。
  • 山門[8] - 高麗門形式。額の題字は小峰峯真の筆。市指定有形文化財(建造物)。
  • 笈退(おいしゃり)の泉[9] - 境内より北400メートル。一遍の雨乞い伝説あり。市指定史跡(その他の遺跡)。
  • 三嶋神社 - 一遍創建と伝わる。

祭礼編集

交通アクセス編集

鉄道バス

自動車

旧末寺編集

脚注編集

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  1. ^ a b c d e 新編相模国風土記稿 當麻村 無量光寺.
  2. ^ 大橋俊雄『一遍聖』(講談社学術文庫、2001年)329頁
  3. ^ 学校沿革”. 光明学園 相模原城東学校. 2021年10月10日閲覧。
  4. ^ 2.木造一遍上人立像(もくぞういっぺんしょうにんりゅうぞう)”. 相模原市ホームページ (2021年7月27日). 2021年10月10日閲覧。
  5. ^ 8.無量光寺文書(むりょうこうじもんじょ)”. 相模原市ホームページ (2021年8月25日). 2021年10月10日閲覧。
  6. ^ 38.無量光寺の徳本念仏塔(むりょうこうじのとくほんねんぶつとう)”. 相模原市ホームページ (2018年1月16日). 2021年10月10日閲覧。
  7. ^ 『神奈川観光ガイド』神奈川県観光協会、1986年、付録 P397頁。 
  8. ^ 1.無量光寺山門(むりょうこうじさんもん)”. 相模原市ホームページ (2018年7月27日). 2021年10月10日閲覧。
  9. ^ 15.無量光寺境内及び笈退の遺跡(むりょうこうじけいだいおよびおいしゃりのいせき)”. 相模原市ホームページ (2018年8月25日). 2021年10月10日閲覧。

参考文献編集

  • 相模原市市史編さん委員会編『相模原市史』1巻、相模原市、1964年
  • 相模原市教育委員会社会教育課編『さがみはらの文化財』第3集、相模原市教育委員会社会教育課、1968年
  • 座間美都治『当麻山の歴史』当麻山無量光寺、1974年
  • 「澁谷庄 當麻村 無量光寺」 『大日本地誌大系』 第38巻新編相模国風土記稿3巻之68村里部高座郡巻之10巻雄山閣、1932年8月。NDLJP:1179219/187 

関連項目編集

外部リンク編集