メインメニューを開く

熊本 典道(くまもと のりみち、1938年10月30日[1] - )は、日本の元裁判官、元弁護士

くまもと のりみち
熊本 典道
生誕 (1938-10-30) 1938年10月30日(81歳)
日本の旗 日本 佐賀県東松浦郡打上村(現・唐津市
出身校 九州大学法学部卒業
職業 無職(元裁判官、元弁護士

2007年合議の秘密を破り、袴田事件の支援者に宛てて「事件は無罪であるとの確証を得ていたが裁判長の反対で死刑判決を書かざるを得なかった」という内容の手紙を書き、その後改めて記者会見を開き同様の趣旨の発言をした。

人物編集

もともと令状請求勾留請求の却下が多い裁判官として知られていた。1968年袴田事件の一審の合議では3人の裁判官の中で唯一無罪を主張するものの、裁判長を含む他の2人の裁判官の反対により、被告人に死刑判決を宣告する[2]。この判決を悔やんで半年後に弁護士へ転身し、東京法律事務所のパートナーとなったが、「俺は無実の人を殺した。逮捕しろ」と夜中に警察署で暴れるなどの上でのトラブルが絶えず[2]、大学で刑事訴訟法の非常勤講師などを務めながら暮らすこととなる。

大酒が原因で体を壊して離婚し、1991年九州へ移住[3]肝硬変で入院したが、病室でも酒を飲んでいる有様だった[2][4]1996年[5]に弁護士登録を抹消。このころの生活については、自ら「弁護士らの知人から借金して食いつないでいた。ホームレスのようなもの」と語っている[2]

2008年には前立腺癌と診断され、2010年には福岡市生活保護を受けながら細々と暮らしていることが報じられた[2]

年譜編集

  • 1938年 - 佐賀県東松浦郡打上村(のち鎮西町、現・唐津市)に生まれる。父母ともに小学校教員をつとめる家庭の長男として厳格な教育を受ける。
  • 1953年 - 鎮西町立打上中学校(現・唐津市立海青中学校)卒業、佐賀県立唐津高等学校(在学中に分離により佐賀県立唐津東高等学校となる)入学。高校入学後まもなく父が詐欺で退職金を全額騙し取られて途方に暮れる姿を見て、不正義を憎む気持ちを持つ[6]。母も妊娠で退職したため家計は貧しかった[7]。叔父が開業医だったため、その後継者となるべく九州大学医学部への進学を期待されていた[7]
  • 1956年 - 佐賀県立唐津東高等学校卒業、医学より法律の世界に進むことを決意し九州大学法学部に入学。
  • 1959年- 司法試験筆記合格、口述で失敗。
  • 1960年 - 司法試験最終合格。合格者334人中1位で、戦後の九州大学では初のトップ合格者として新聞社の取材を受けた[8]。後に先輩判事から「君はじっと余計なことをしないで淡々と仕事をしていたら最高裁判事になれる」と言われた[8]
  • 1961年 - 九州大学法学部卒業。司法研修所に入る。
  • 1963年 - 司法修習(第15期)を修了し東京地方裁判所刑事部判事補として刑事14部(通称、令状部)に勤務。当時、同部には彼と同じく人権派として知られた木谷明がいた[注釈 1]検察からの勾留請求の却下率が通常1パーセントに満たないところ、3割の勾留請求を却下[9]。それを不満に思った者から脅迫電話を受けたこともある[9]
  • 1965年 - 司法修習時代の教官だった菅野勘助の紹介で静岡県沼津市の弁護士の娘と結婚。仲人は義父の知り合いの塚本重頼
  • 1966年 - 4月、福島地方・家庭裁判所白河支部判事補となるも、妻が鬱病で入水自殺未遂を起こす[10]。妻の療養のため退官して東京で弁護士になろうとしたが、最高裁係官に慰留され、妻の実家がある静岡に転勤。11月から静岡地方・家庭裁判所判事補。12月2日の第2回公判から袴田事件を担当。
  • 1969年 - 最初の妻との間に長男が出生。
  • 1969年 - 判事補退官、東京都杉並区荻窪に転居、弁護士登録(東京弁護士会)。谷村唯一郎・塚本重頼法律事務所勤務。
  • 1970年 - 4月頃、最初の妻と離婚、同じころ何らかのトラブルにより谷村唯一郎・塚本重頼法律事務所を辞職。その詳細について熊本は「彼らに能力がないと判断したから辞めたまで」と語るが[11]、熊本の長男によると、熊本を谷村唯一郎・塚本重頼法律事務所に紹介した岳父は熊本を「あんな詐欺師は見たことがない」「恥をかかされた」と批判していたという[12]。熊本の最初の妻によると、離婚の原因は酒と浮気と養育費の不払いだったという[13]。熊本の最初の妻もまた極端で不安定な性格であると長男は語っている[14]。同じ4月、藤井英男法律事務所の客員として独立弁護士の修業を始める。
  • 1972年 - 舟橋諄一民法)・熊本典道法律事務所で弁護士開業。翌年まで千葉大学法学部講師(刑事訴訟法)。
  • 1973年 - 翌年まで名城大学法学部講師(刑事訴訟法)。
  • 1974年 - 2月、北里大学教授の25歳の娘と再婚。東京都目黒区青葉台に転居。1985年まで東京都立大学法学部講師(刑事訴訟法)。
  • 1975年 - 二番目の妻との間に長女が誕生。
  • 1976年 - 5月、袴田事件第2審で東京高裁控訴棄却。「無実の男を獄中に放り込んでおきながら自分は仕事でも家庭でも恵まれた人生を送っている」という罪悪感から酒に溺れた、と熊本は説明する[15]
  • 1978年 - 二番目の妻との間に次女が誕生。
  • 1985年 - 日本航空123便墜落事故安田火災海上保険の顧問弁護士となる。この頃の年収は1億円を超え、銀座赤坂の高級クラブで豪遊していた[16]。しかし、やがてパーキンソン病アルコール使用障害鬱病肝硬変[17]幻覚や幻聴に悩まされるようになる(統合失調症を疑う医者もいた[17])。やがて部下の失敗の責任を取る形で安田火災の顧問弁護士を辞任、また事務所の女性職員に数千万円を持ち逃げされた事件もあり、法律事務所を畳み、家族とも離散するに至った[18]
  • 1990年 - 3月- 二番目の妻と離婚。原因は熊本の酒と浮気と家庭内暴力だったと長女は語る[19]
  • 1991年 - 司法修習で同期の弁護士の和田久を頼って鹿児島市に転居、鹿児島弁護士会に移籍、和田法律事務所で働く。大腸癌、肝硬変、黄疸[20]などの体調不良のため仕事を減らし静養。熊本によると、当時の仕事は法律相談に乗ることだったというが、和田によると当時の熊本は事務所で本を読んだり外出したりでほとんど何もしなかったという[21]。私生活では酒に溺れ、娘ほどの年齢のスナックの女性に入れあげ、アパートの部屋は足の踏み場もなく、タバコ蚊取り線香でボヤ騒ぎを起こし、無銭飲食でトラブルになったこともある[22]
  • 1996年 - 和田法律事務所を去る。和田によると、熊本は幻覚や幻聴が激しく、出廷日に出廷しないことが続いていたという[23]鹿児島県出水市に移って弁護士事務所を開く予定だったが失敗、五島列島で事務所を開こうとするもやはり失敗[24]。最終的に弁護士登録を抹消。五島列島では地元の関係者に接待を受けたものの弁護士登録ができず、詐欺まがいとの悪評が立ったといわれる[25]。弁護士登録ができなかった理由について熊本は「再登録するにあたって推薦人(2名)が集まらなかった」と説明する[25]。この後、自殺を考えて東尋坊阿蘇山不知火海などを彷徨、ノルウェーフィヨルドで死に場を探したこともある[26]
  • 2006年 - 福岡市で65歳の独身女性と知り合い、内縁関係となる。内縁の妻から10万円を借りて弁護士登録再申請をおこなったが失敗[27]。11月、内縁の妻の長男が「袴田巌さんの再審を求める会」に連絡を取り、これまで消息不明とされていた熊本の存在が世に明らかとなる。
  • 2007年 - 袴田事件の第一審で死刑判決を出した他の2人の裁判官の死亡を確認後、3月9日、衆議院議員会館で「死刑廃止を推進する議員連盟」の院内集会に参加。元担当判事として袴田巌の無実を訴える。6月25日、再審を求める陳述書を最高裁に提出。6月、内縁の妻の長男の勧めでブログ「裁判官の良心」を開始[28]。7月2日、東京拘置所に赴いて袴田巌と面会を望むが不許可となる。
  • 2008年 - 1月24日、袴田事件再審開始を目指す支援チャリティボクシングに参加、リングの上から袴田巌の無実を訴える。10月、ニューヨーク国連本部でアムネスティパネルディスカッションに参加。11月、ステージ3の前立腺癌が発見される。のちホルモン剤の投与で数値が下がったが、ホルモン剤の副作用で認知症が進行しているといわれている[29]
  • 2018年 - 1月9日、入院中の病院において、地裁の法廷以来約50年ぶりに袴田巌と対面[30]。2月には袴田事件の再審を求める陳述書を東京高裁に提出した[31]

主な裁判編集

  • 1968年、合議制の袴田事件第1審(静岡地方裁判所)にて無罪の心証を形成し、1968年6月中旬には無罪判決文を書いていたが、裁判長の石見勝四、右陪席の高井吉夫を説得することに失敗。有罪の主張を譲ろうとしない高井に向かって「あんた、それでも裁判官か!」と怒鳴りつけたという[32]。死刑判決文を書くことを拒否し、高井に「あんたが書けよ!」と用紙を投げつけたが、最終的には1968年8月、左陪席の職務として泣く泣く死刑判決文を書き上げる[33]。この判決には、他にない厳しい口調で検察捜査・立証を批判している部分があり、「合議体の分裂」、つまり、「合議で被告人の有罪に異を唱えた裁判官がいた」可能性が以前から指摘されていた[34]。当時はあくまで推測にすぎなかったが、石見と高井の死後、熊本の告白により、それが事実であることが明らかになった。
;判決文[35]より抜粋

被告人が自白するまでの取調べは、―外部と遮断された密室での取調べ自体の持つ雰囲気の特殊性をもあわせて考慮すると―被告人の自由な意思決定に対して強制的・威圧的な影響を与える性質のものであるといわざるをえない。

すでに述べたように、本件の捜査に当って、捜査官は、被告人を逮捕して以来、もっぱら被告人から自白を得ようと、極めて長時間に亘り被告人を取調べ、自白の獲得に汲々として、物的証拠に関する捜査を怠ったため、結局は、「犯行時着用していた衣類」という犯罪に関する重要な部分について、被告人から虚偽の自白を得、これを基にした公訴の提起がなされ、その後、公判の途中、犯罪後一年余も経て、「犯行時着用していた衣類」が、捜査当時発布されていた捜索令状に記載されていた「捜索場所」から、しかも、捜査官の捜査活動とは全く無関係に発見されるという事態を招来したのであった。

このような本件捜査のあり方は、「実体真実の発見」という見地からはむろん、「適正手続の保障」という見地からも、厳しく批判され、反省されなければならない。本件のごとき事態が二度とくり返されないことを希念する余り敢えてここに付言する。 — 判決文、袴田ネット・袴田事件より

著作編集

  • 『刑事訴訟法論集』(信山社出版、1989年、ISBN 4882610582
  • 『麻酔事故の法律問題』(信山社出版、1992年、ISBN 4882610957

文献編集

映画編集

脚注編集

注釈編集

  1. ^ 木谷明は後年、有罪判決が99.9パーセント以上を占めると言われる日本の裁判所において30件ほどの無罪判決を確定させ、司法界で名を馳せている。

出典編集

[ヘルプ]
  1. ^ 尾形誠規『美談の男――冤罪袴田事件を裁いた元主任裁判官・熊本典道の秘密』p.88(鉄人社、2010年)
  2. ^ a b c d e 中日新聞 2010年6月2日:裁く重み 人生翻弄 袴田事件裁判官・熊本さんの半生:静岡(CHUNICHI Web)
  3. ^ 尾形(2010, p.206)
  4. ^ 尾形(2010, pp.182-183)
  5. ^ 尾形(2010, p.206)
  6. ^ 尾形(2010, p.90)
  7. ^ a b 尾形(2010, p.91)
  8. ^ a b 尾形(2010, p.92)
  9. ^ a b 尾形(2010, p.96)
  10. ^ 尾形(2010, p.103)
  11. ^ 尾形(2010, p.237)
  12. ^ 尾形(2010, p.164)
  13. ^ 尾形(2010, p.165)
  14. ^ 尾形(2010, pp.165-166)
  15. ^ 尾形(2010, pp.125-126)
  16. ^ 尾形(2010, p.131)
  17. ^ a b 尾形(2010, p.180)
  18. ^ 尾形(2010, pp.132-134)
  19. ^ 尾形(2010, pp.175-178)
  20. ^ 尾形(2010, p.207)
  21. ^ 尾形(2010, p.206)
  22. ^ 尾形(2010, p.184, p.207)
  23. ^ 尾形(2010, p.205)
  24. ^ 尾形(2010, pp.135-136)
  25. ^ a b 尾形(2010, p.136)
  26. ^ 尾形(2010, pp.136-139)
  27. ^ 尾形(2010, pp.143-144)
  28. ^ 尾形(2010, p.145)
  29. ^ 尾形(2010, p.156)
  30. ^ “袴田さん、死刑判決を書いた元裁判官と半世紀ぶり対面”. 朝日新聞. (2018年1月13日). https://www.asahi.com/articles/ASL196SV1L19UTPB01M.html 2018年2月18日閲覧。 
  31. ^ “再審求め元裁判官の陳述書提出 袴田さん支援者”. 西日本新聞. (2018年2月13日). https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/393761/ 2018年2月18日閲覧。 
  32. ^ 尾形(2010, p.113)
  33. ^ 尾形(2010, p.115)
  34. ^ 『季刊・刑事弁護』97年4月10日号
  35. ^ 袴田ネット・袴田事件

関連項目編集

  • 山崎兵八 - 二俣事件の捜査に携わった刑事。良心の呵責から裁判で冤罪を主張し、静岡県警を退職に追い込まれた。

外部リンク編集