熊沢光子
経歴 編集
愛知県名古屋市の弁護士の家庭に生まれる。愛知県立第一高等女学校卒業。愛知県庁に勤務。1931年、米よこせ運動や消費組合運動をしていた山本秋により[1]社会運動に参加。1932年に上京し住み込みの女給となりカフェーを転々とし、同年秋の赤色ギャング事件の資金局本部事務員として検挙され、4か月留置の末、転向して釈放され帰郷[2]。
1933年2月、4歳下の妹勝子[3]とともに再び家出して上京、カフェの女給などをしながら運動に参加。同年3月党中央委員大泉兼蔵と知り合い、翌4月大泉のハウスキーパー (日本共産党)となる[4]。ただ、大泉から宿で関係を迫られるなど軽率な言動から一度は大泉をスパイと疑い、紹介者の党員に訴えたが、説得され了解した[2]。また、大泉が妻子持ちであることも知っていた[2]。手記には大泉との同棲について「彼の仕事を手伝うことが自分に課せられた役割だと思って約束し、闘争のためだと思っていた」と述べている[2]。この年日本共産党に入党。
1933年12月24日、大泉が特高警察のスパイの疑いで東京市渋谷区幡ヶ谷の党アジトで査問されると、熊沢も呼ばれ査問される(日本共産党スパイ査問事件)。ともに査問された小畑達夫がリンチにより死亡し、党幹部として信頼を置いてきた大泉がスパイであることを自白したと知り、熊沢は絶望し運動を続ける自信を失って同日夜自殺を決意。迷惑が及ばないように大泉と心中することを党に提案・了承される。1934年1月14日、大泉と共に遺書を書くが、警察の動きを察知しこの日に予定していた自殺を中止、二人は東京市目黒区下目黒にある党中央委員候補木島隆明のアジトに送られた。
翌15日、大泉は逃亡をはかるが、乱闘の後鳥居坂警察署に連行され、熊沢は騒ぎと無関係と見られ茫然と歩いているところを目黒警察署の巡査に捕らえられた[5]。市谷刑務所に収監され、のち獄中で自殺[6]。両親宛ての遺書には「一か月以上も洗ったことのない体ですが、どうかご免ください。どうか灰にしてください。ぢきも一度うまれ変わって〇〇の勝利のために戦はう」とあり、「私たちができ得る党に対する最後の奉仕として公然たる死を選んでしかばねをプロレタリヤの前にさらしませう」ともあった[2][7]。