熊谷 信直(くまがい のぶなお)は、戦国時代武将安芸国国人で、安芸武田氏家臣、後に毛利氏家臣。

 
熊谷 信直
Kumagai Nobunao.jpg
熊谷伊豆守信直
毛利博物館「毛利元就座備図」より)
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永正4年(1507年
死没 文禄2年5月26日1593年6月25日
改名 熊谷千代寿丸(幼名)→熊谷信直
別名 通称:次郎三郎
戒名 きさんせうけん
墓所 菩提所観音寺跡広島市安佐北区
官位 兵庫頭従五位下伊豆守
幕府 征夷大将軍
主君 武田元繁毛利元就輝元
氏族 桓武平氏国香流熊谷氏
父母 父:熊谷元直 母:宮光信の娘
兄弟 信直直続、女(武田光和室、三須房清室)、女(白井房胤室)
正室:武田好清の娘
高直直清広真三須隆経就真
新庄局吉川元春正室)、天野元明室、
山内隆通室、香川広景正室、野間隆実正室
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生涯編集

安芸武田家臣から毛利家臣へ編集

平安時代末期に平氏との戦いで活躍した熊谷直実の直系の子孫である。安芸国の国人領主であり、安芸の守護を務めていた安芸武田氏家臣となっていた。

父の元直は武田元繁に従い、永正14年(1517年)に毛利元就率いる吉川・毛利連合軍と戦い、有田中井手の戦いで討死している。この一件もあり、この頃は毛利氏と敵対関係であった。大永4年(1524年)に周防長門の大名・大内義興が安芸に侵攻し、安芸武田氏の居城・佐東銀山城を包囲した。大内軍の一部が三入庄まで進出したため、八木城主・香川吉景らの支援を得て、大内軍を打ち破った。同年7月には、父の仇であった毛利元就の指揮下に入り、香川光景三須房清らと大内包囲軍に奇襲をかけ、散々に打ち破った。仇であった元就の戦いぶりを間近に見た信直は、元就に対する認識を変え、毛利氏との和解へと繋がった。

大永7年(1527年)に同じ安芸武田家臣の船山城主・山中成祐が信直を暗殺しようとして失敗。3年後にこの仇を討ち、弟の直続、家臣の岸添直清末田直道らと謀って山中成祐兄弟を討ち取った。

天文2年(1533年)に所領の問題と武田光和夫人であった妹への待遇への不満、大内氏・毛利氏・熊谷氏の密約が漏れたこと、信直が武田氏の所領を横領したことなどで武田氏と対立。ついには自身の居城である三入高松城が攻撃を受けた。兵力は1,000余で、それを二手に分け、三入高松城を攻撃するのは総大将・武田光和以下、品川信定他200、もう一軍の総大将は武田一門の伴繁清、それに従うのは香川光景、己斐直之、熊谷一族の山田重任温科家行飯田義武板垣繁任などのそうそうたる顔ぶれであった。それに対して熊谷勢は信直を総大将とし、弟の直続、末田直忠直久兄弟、岸添清直、水落直政らがこれに従った。

三入庄に侵攻した伴繁清率いる武田軍は三入横川表に進出し、防備を固めていた熊谷信直配下300と激突した。この横川表の戦いにおいて少数の熊谷勢は奮戦して、総大将の伴繁清を負傷させた。また三入高松城へ侵攻した本隊も多くの死傷者を出し、撤退を余儀なくされた。これを横川表の戦いと言う。

この合戦を期に毛利氏との連携を強め、その指示へ従うようになった。

吉田郡山城の戦いと月山富田城の戦い編集

天文9年(1540年)、出雲戦国大名・尼子詮久(後の尼子晴久)が安芸に侵攻。毛利元就の居城・吉田郡山城へと攻め寄せた。また牛尾幸清が兵2,000を率いて佐東銀山城に入り、周辺をうかがった。籠城しながらも、毛利元就は神出鬼没の戦いぶりで尼子軍を翻弄し、大内氏の援軍として陶隆房が兵10,000を率いて来ると、翌10年(1541年)に尼子詮久は撤退した。信直は三入高松城を守っていたが、佐東銀山城内の牛尾幸清が撤退するに及び、八木城主・香川光景と追撃をかけるが、間に合わなかった(吉田郡山城の戦い)。

同年5月には元就の命に従い、宍戸隆家、香川光景らと旧主・安芸武田氏を攻撃。佐東銀山城を包囲してついに落城させ、安芸武田氏当主・武田信実は出雲に逃亡した。これにより、鎌倉時代より続いた安芸武田氏は終焉を迎えた。

天文11年(1542年)、大内義隆は勢力の衰えた尼子氏を討つべく山口を出陣。途中、三入庄の観音寺に宿泊して、出雲へ侵攻した。赤穴城の戦いで熊谷勢は苦境に立たされ、信直の弟・直続が討死した。その後、月山富田城を包囲攻撃するも、吉川興経らの寝返りもあり、結局月山富田城攻略に失敗。熊谷勢も無残な退却戦となり、香川光景らと共に退却していたが、出雲鳶ノ巣川で一揆衆の襲撃を受け、乱戦の後に死地を脱した(月山富田城の戦い)。

天文16年(1547年)には娘の芳桂(新庄局)を毛利元就の次男・吉川元春に嫁がせ、毛利氏との関係を強化し、一門衆として扱われるようになった。

大内氏との戦い編集

天文17年(1548年)8月、信直は元就と共に山口の大内義隆を訪問。翌年の3月まで山口に滞在した。そして天文19年(1550年)9月、元就の命を受け、月山富田城の戦いで煮え湯を飲まされた幽閉中の吉川興経を天野隆重と急襲して殺害した。興経の首は信直家臣の末田直共が取った。

天文20年(1551年)、大寧寺の変で大内義隆が家臣であった陶隆房の謀反により横死した。毛利氏は徐々に独立を志向し、陶氏率いる大内氏に従属を続けながらも、安芸国内の統一を目指した。翌21年(1552年)は5月に備後で尼子氏と対陣。7月には祝貞近を攻撃。9月には義隆の残党が立て籠もる安芸槌山城を攻略、平賀隆保らを討ち取った。また翌22年(1553年)には、鶴首城主・三村家親を支援した吉川元春に従い、備中猿掛城主・庄為資を攻撃して降伏させた。

天文23年(1554年)、折敷畑の戦いでも吉川軍主力として奮戦。陶軍を掃討し、宮川房長を自刃に追い込んだ。同年6月、陶軍の残党を打ち破り、廿日市周辺を征圧した。同年9月に、毛利軍は信直の婿であった野間隆実が籠もる矢野城を攻撃した。野間隆実の妻は信直の長女であったため、隆実は信直を通じて降伏したが、三入庄に移送されて暗殺された。基本的に降伏した者を赦す元就であったが、陶氏との決戦を目の前にしてやむを得ず緊急措置に至った。

天文24年(弘治元年、1555年)、陶晴賢(隆房より改名)率いる大内軍20,000が厳島に上陸。毛利軍の拠点で、己斐直之が籠もる島内の宮尾城を包囲攻撃した。信直は4人の息子高直直清広真三須隆経らと兵を率いて、落城寸前となった宮尾城への援軍として入城した。旧暦10月1日に毛利元就率いる本隊が奇襲をかけた際に、城から撃って出て陶軍を撃破、晴賢を討ち取った(厳島の戦い)。

同年の防長経略にも参戦、岩国へ進出して杉隆泰鞍掛山城を攻略した。翌弘治2年(1556年)から3年(1557年)にかけて山口を制圧。逃亡した大内義長を追って長門勝山城を包囲し、内藤隆世は自刃。降伏した義長も最終的には自刃して果てた。

尼子氏との激闘、第二次月山富田城攻防戦編集

永禄元年(1558年)には石見出羽に進出して小笠原長雄を破り、福屋隆兼も打ち破った。12月には中村康之と石見最大の国人であった益田藤兼を降伏させた。これらの功もあり、室町幕府13代将軍・足利義輝は永禄3年(1560年)、信直を伊豆守に叙任した。翌年には毛利氏に降伏していた本城常光を暗殺。この時、信直も軽傷を負った。

永禄5年(1562年)10月、元就率いる出雲遠征軍の一員として、出雲白鹿城を攻撃。城主・松田誠保は必死の防戦に努めたが、白鹿城は落城し、毛利軍は攻略に成功した。同年冬には出雲洗骸に陣を築いて月山富田城攻略の拠点とし、熊谷父子もそこに滞在して次の戦いに備えた。何度かの攻城戦の結果、元就は攻城の無理を悟り、長期攻囲作戦に切り替えた。そのため月山富田城内の兵糧は底をつき、徐々に逃亡兵が出るようになった。

永禄9年(1566年)11月、尼子義久倫久秀久兄弟は降伏し、大名としての尼子氏は滅亡した。

大友氏、尼子再興軍・山中幸盛との死闘編集

 
伝・熊谷信直墓

永禄11年(1568年)、吉川元春に従い熊谷親子は北九州に進出。博多を望む要衝・筑前立花山城を包囲攻撃し、援軍に現れた大友軍と激突した。立花山城は落城し、毛利氏の手中に収まったが、大内輝弘らが周防に乱入したため、立花山城を放棄して輝弘を討った(大内輝弘の乱)。

信直は元春と共に、中国地方各地を常に吉川軍の主力として転戦。最終的には国衆最高の16,000石を得た。しかし天正7年(1579年)に嫡男の高直が病死、嫡孫の元直を補佐し、文禄2年(1593年)に病死した。

墓所は居城のあった三入高松城の麓、土居屋敷の近くにあった観音寺跡。毛利氏と共に熊谷氏が防長に移封された後も子孫は墓参を行っている。

家族編集

弟と息子編集

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香川宣阿による『陰徳太平記』に「白くも頭にあばた面、歩く姿はがにまた・せむし」「世にまたとなき悪女」と書かれており、吉川家家臣の手による書物であるというのに、遠慮もなく無惨であるのは、世評どうり事実であったものであろうといえる。 「形醜くければ、人これをめとらず、父の歎き、またいかばかりぞや」と噂された醜女を、吉川元春みずから「わが望むところは熊谷信直の嫡女なり」と、進んで迎えたとされている[1]

参考資料編集

  • 『熊谷家文書』(第121号 - 第161号)
  • 可部町史』
  • 『熊谷家譜録』(熊谷家蔵)
  • 『毛利戦記―大内、尼子を屠った元就の権謀』(歴史群像シリーズ (49)) ISBN 4056014604
  • 萩藩閥閲録』巻27「熊谷帯刀」
  • 藤木久志「戦国乱世の女たち」、笠原一男編 『彼岸に生きる中世の女』 評論社〈日本女性史3〉、1976年。

脚注編集

  1. ^ 藤木久志 著「戦国乱世の女たち」、笠原一男 編 『彼岸に生きる中世の女』評論社〈日本女性史3〉、1976年。 

関連項目編集

先代:
熊谷元直
安芸熊谷氏歴代当主
1517 - ?
次代:
熊谷高直