熊野』(ゆや)は、を代表する曲の一つである。作者は、世阿弥[1]。禅竹の著書『歌舞髄脳記』に『遊屋』の記述がある。喜多流では『湯谷』。『平家物語』の巻十「海道下」(かいどうくだり)の場面から発展させたと考えられる。

月岡耕漁「能楽百番」より
熊野
作者(年代)
世阿弥。
(室町時代?)
形式
現在能
能柄<上演時の分類>
三番目物、鬘物
現行上演流派
観世・宝生・金春・金剛・喜多
異称
湯谷(喜多流)
シテ<主人公>
熊野(平宗盛の妾)
その他おもな登場人物
朝顔、平宗盛
季節
春。花見の頃
場所
京都 前半 平清盛邸 後半 清水寺 

中入りはないが場面は変わる

本説<典拠となる作品>
平家物語
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作中で「自分と同じ名前だ」として熊野権現、今熊野(いまぐまの)を挙げている。つまりは喜多流以外では主人公の名は「くまの」だと思われるが、本項では「ゆや」と音読みする。

ドラマチックな展開を可能とする素材を扱いながら、対立的な描写を行わず、春の風景の中、主人公の心の動きをゆるやかな過程で追う。いかにも能らしい能として、古来「熊野松風に米の飯」(『熊野』と『松風』は、米飯と同じく何度観ても飽きず、王道である、の意)と賞賛されてきた。

内容 編集

時は平家の全盛期、ワキ平宗盛)の威勢の良い名乗りで幕を開ける。宗盛には愛妾熊野(シテ)がいるが、その母の病が重くなったとの手紙が届いた。弱気な母の手紙を読み、熊野は故郷の遠江国に顔を出したいと宗盛に願う。だが、宗盛はせめてこのは熊野と共に見たい、またそれで熊野を元気づけようと考える(「この春ばかりの花見の友と思ひ留め置きて候」)。

熊野の心は母を思い鬱々としながらも、道行きに見る春のの姿にも目を喜ばせる。やがて牛車清水寺に着いた。花見宴会が始まり、一方熊野は観音堂で祈りを捧げる。やがて熊野は呼び出され、自分の女主人としての役割を思い出す。宗盛に勧められ花見の一座を喜ばせようと、心ならずも熊野は桜の頃の清水を讃えながら舞(中ノ舞)を舞うが、折悪しく村雨が花を散らす。それを見た熊野は、

いかにせん都の春も惜しけれど、馴れし東の花や散るらん

の歌を詠む。宗盛が前半を読み上げ、、熊野が後半を読み上げる。[2]。宗盛もこれには感じ入り、その場で暇を許す。熊野は観世音の功徳と感謝し、宗盛の気が変わらない内にとすぐさま故郷を目指し出立する。「東路さして行く道の。やがて休ろう逢坂の。関の戸ざしも心して。明けゆく跡の山見えて。花を見捨つるかりがねの。それは越路われはまた。あずまに帰る名残かな。あずまに帰る名残かな。」(トメ拍子)。

 
熊野


ゆかりの地 編集

 
江戸時代に描かれた熊野の墓(「湯谷之墓」藤長庚編集『遠江古蹟圖會』1803年。国立国会図書館蔵)
 
熊野の長フジ。国指定天然記念物の株。2022年4月20日撮影。
  • 熊野の墓
静岡県磐田市池田の行興寺にある(北緯34°44'14", 東経137°48'54")。
熊野御前の命日とされる5月3日に合わせ、毎年4月下旬から5月上旬にかけて、熊野の長藤まつりが行われる。境内には熊野が植えたとの言い伝えがある熊野の長フジがあり、国の天然記念物に指定されている。

音声資料 編集

  • CD 能楽「熊野」コロムビアミュージックエンタテインメント 演能形式でほとんど全曲を収録。

脚注 編集

  1. ^ 熊野. 檜書店. (不詳). p. 最初のページ「作者」 
  2. ^ 熊野. 檜書店. (不詳). p. 14表面 

関連作品 編集

外部リンク 編集